とても笑える洗練された演出だが、それでいいのだろうか~『出口なし』

 新国立劇場で『出口なし』を見てきた。小川絵梨子演出で、言わずと知れたサルトルの有名戯曲である。2人の女と1人の男が地獄に落とされ、出られない部屋で心理戦を行うというものだ。

 

 中年男性のガルサン(段田安則)、中年女性のイネス(大竹しのぶ)、若い女性のエステル(多部未華子)という順で地獄に到着するのだが、最初のほうはちょっと台詞が堅い、というか台本がそもそもちょっと不必要に格式ばってるような感じもして(初対面で他人行儀な感じを表そうとしたのかもしれないが)、役者がもたついたり噛んだりしていたものの、後半は全員のってきてすごく笑えた。3人とも地獄に堕とされるだけあってイヤな人たちなのだが、全員かなり人間味があった。レズビアンのイネスがステレオタイプな感じで悪魔化されないよう、演出も大竹しのぶの演技もよく気を遣って奥行きのある人物像を作り上げていたと思う。エステルも若くて色気を使うイヤな女性ということでミソジニーまみれのキャラクターになりそうだが、多部未華子が生き生きしているせいでちょっとかわいそうに見えることすらある。段田ガルサンも不愉快なおっさんというだけではなく、悲しいところがある。

 

 後半は3人のいがみあいが大変おかしく、非常に笑えたのだが、ただこの芝居がこんなにすっきり笑えていいのかな…という気はした。たしかに劇作家サルトルには大変洗練されたユーモアのセンスがあるし、『出口なし』ではそれがいかんなく発揮されているので笑いは絶対必要なのだが、一方でこの芝居ではお客さんも地獄に突き落とされるようなヤな気分になる瞬間が何回かあってもいいような気がするのである。なぜなら、この舞台に出てくる地獄は、私たちが生きているところそのまんまだからだ。一回、ガルサンなどが客席を見てちょっと第三の壁を越えるようなそぶりをするところがあったのだが、ああいう演出でもっとお客さんを同じ平面に引き込んでもいいのではという気がした。

 

 

 

 

ピム博士は是非、高潮対策を…『アントマン&ワスプ』(ネタバレあり)

 『アントマン&ワスプ』を見てきた。

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 『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で暴れて自宅軟禁状態になってしまった。スコット(ポール・ラッド)。自身のソコヴィア協定違反の影響で監視対象になってしまったピム父娘とも疎遠になっていた。しかしながらハンク(マイケル・ダグラス)の妻でホープ(エヴァンジェリン・リリー)の母であるジャネット(ミシェル・ファイファー)を助け出すべくピム父娘が活動を開始し、スコットを無理矢理引っ張り込む。2人を助けるため、自宅軟禁という大関門をごまかしつつ活動を再開するスコットだが…

 

 リラックスして見られるとても楽しいアクション映画で、時系列的にはこの映画の後にくるはずの『インフィニティ・ウォー』に比べるとかなり明るい作品だ。主人公のスコットにユーモアがあるというのはもちろん、友人で同僚である元泥棒のルイス(マイケル・ペーニャ)が度外れなくらいお調子者なので、いろいろ笑えるところがある。とくにルイスはとにかく話が長くてしかもその内容が要領を得ないということで、一見バカキャラみたいに見えるところもあるのだが、大変な好人物でいざとなると大活躍してくれるあたり、スコットの親友にふさわしい男だ。

 

 一番面白かったのは、ジャネットがスコットを通して語りかけてくる場面である。スコットが突然、知的で上品な初老の女性みたいな話し方や仕草で愛情をこめてホープやハンクに話しかけ始めるのだが、この場面のポール・ラッドは大変芸達者で笑ったし、また切ないところもあった。ポール・ラッドと『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル』に出てたジャック・ブラックで主演で、見た目は男性、中身は女性であるこの2人が親友として冒険する映画とか作ってほしい。なお、ジャネットの中の人を演じるミシェル・ファイファーはもう60歳だそうだが、美しすぎてうっとりするくらいだ(昔から凄い美人だったが、年をとって灰汁が抜けて、若い頃はたまにしか見せなかった優しい魅力が全開になってさらに美しくなったように思う)。ジャネットとホープの会話でベクデル・テストはパスする。

 

 全く関係ないのだが、台風があった直後にこの映画を見たので、ハンクはテクノロジーを用いて現地で巨大化させた家に住む際、強風とか高潮で倒壊しないよう、安全対策を早急にとるべきだと思った。ネタバレになるが、最後のビーチハウスはかなり立地がヤバいと思う。

歌って踊って、お父さんが誰かとかはどうでもいい~『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』(ネタバレあり)

 『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』を見てきた。『マンマ・ミーア!』の続編で、前編アバの音楽を使ったジュークボックスミュージカルである。全体的に前作よりかなりお金がかかっていて、船の場面など豪華なところが多い。

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 ビックリするのは、映画の開始時点で前作のヒロインのひとりだったドナ(メリル・ストリープ)が亡くなっていることだ。娘のソフィ(アマンダ・サイフリッド)が母の遺志をついてカロカイリ島のホテルのリニューアルオープンを目指している。夫のスカイ(ドミニク・クーパー)とはあんまりうまくいってない。このあたりのホテルのリニューアルオープンの話が現在視点で続く一方、若き日のドナ(リリー・ジェームズ)がいかにソフィの「3人の父」であるサム(ピアース・ブロスナン)、ハリー(コリン・ファース)、ビル(ステラン・スカルスガルド)と出会ったのかを描く。

 

 この、若き日のドナを演じるリリーが超可愛い。めちゃくちゃ魅力的で生き生きしており、行く先々で男たちがバタバタとドナに参ってしまうのも当然という感じだ。3人の彼氏はみんなドナに夢中で、サムとハリーはドナに恋心を抱いたまんま離れてるし、ビルは冒険家なのでまあ女と長続きするタイプじゃないわけだが、それでも1度はドナに未練があって戻ってきてる。とくにハリーはかなりかわいそうなフラれ方をしている。前作で実はゲイだとカムアウトしていたハリー(ヒュー・スキナー)はドナが初めて熱烈に恋をしてセックスした相手ということになるのだが、ドナはなんかあんまりしっくりこなかったのか(ハリーが実はあまり女が好きじゃないことにうすうす気付いたのかも)、無言でハリーのもとを去ってしまう。ショックを受けてドナを追っかけるがうまくいかないハリーは、けっこう気の毒だ。

 

 しかしながら、この恋多き女ドナを誰も男好きだとか非難することはないし、この映画に出てくる人はみんな父親がわからない子供をひとりで育て、友情を大切にし、ホテル経営までやっていたドナを大変立派な女性だと尊敬している。このあたりの、人をせせこましい性道徳とか家族規範とかで非難しないおおらかさが大変よい。最近読んだBritish Musical Theatre Since 1950に、『マンマ・ミーア!』のストーリーはメチャクチャに見えて「子供の父親は誰か?」という古典的な物語上の問いをぶっとばすポストモダンな話の作りをしているという分析を見かけてなるほどと思ったのだが、たしかに『マンマ・ミーア!』シリーズは一見、愛と家族の素晴らしさを称える保守的な話のようで、実は「血のつながりとかどーでもいいじゃん!家族になりたいヒトで家族になるのが幸せだよ」というメッセージを全身で発している。『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』でも、3人のお父さんは誰が父親か競争とかはせずにソフィを娘としてかわいがっていて、リラックスした親子関係を築いている。

 

 ベクデル・テストについては亡きドナの話をターニャやロージーがするところでパスする。あとシェールがソフィの疎遠になっていた祖母ルビー役で出てくるのだが、私は実はシェールが一番浮いてるように思った…というのも、この映画は基本、「歌が下手でも楽しくみんなで歌えばいいのがアバ」というコンセプトでできているのだが、シェールだけマジで本職の大歌手なので、ひとりだけ歌の解像度がおかしいみたいな感じがする。女性とゲイ男性に人気のある『マンマ・ミーア!』が、ファンベースがかなりかぶるゲイアイコンのシェールを起用しようというのはわかるのだが、とくに男性キャストに比べると歌がうますぎるなと思った。

 

 

賢いオーランドー~Kawaiプロジェクト『お気に召すまま』(ネタバレあり)

 シアタートラムでKawaiプロジェクト『お気に召すまま』を見てきた。河合祥一郎新訳、演出のものである。

 視覚的な雰囲気は大変なごやかでのどかな感じで、グローブ座の張り出し舞台みたいな三方を客席に囲まれた舞台があり、床はフェルメールに絵に出てくるような白黒模様になっている。森の場面では上から緑色の木々を思わせる布が吊られ、床には緑の草が置かれるようになる。衣類もあまり現代化はされておらず、どことなくルネサンス風だがわりとシンプルでカラフルだ。

 全体としてはオーソドックスな演出の楽しい恋愛喜劇なのだが、いくつか大きな冒険ポイントがある。ロザリンドの父である前公爵とシーリアの父フレデリックを同じ役者(鳥山昌克)にしたのは面白く、兄弟で顔が似ているのにまったく違う人に見える。タッチストーンとジェイクィズを一人二役にしたのは、この2人がコインの裏表みたいだということを示すにはとてもいいし、演じた釆澤靖起が大変上手だったのでそうしたいのはとてもよくわかるのだが、ただ何しろ2人が同じ舞台に登場する場面があるものであまりにも忙しすぎて、タッチストーンの機知に笑うというよりは釆澤靖起の声色や変身に笑うみたいになっちゃうのが良くないかと思った。

 一番大きな演出のポイントは、実際に正体が明かされる以前から、オーランドーがギャニミードが実はロザリンドだということに気付いているという解釈をとっていることだ。オーランドー(玉置玲央)は男装したロザリンド、つまりギャニミード(太田緑ロランス)と最初からけっこう近しく、ギャニミードと会うのをいかにも楽しみにしている。さらにオーランドーの兄オリヴァーが失神したギャニミードを助け起こそうとする場面ではオリヴァーがうっかり胸に触ってしまい、オリヴァーにもギャニミードが女性であることがバレるという展開もある。この後にオーランドーはギャニミードと会った時、兄とものすごくびっくりするような話題について話したと意味ありげに言っており、これはおそらく、2人ともギャニミードが実はロザリンドだということに気付いてそれについて話しあったことをほのめかすものだ。

 

 オーランドーがわりと早い段階でギャニミードの正体に気付くというのはあんまり見かけない演出だが、皆無というわけではない。私はライヴ上演では見たことないと思うのだが、岩波文庫版『お気に召すまま』の解説には「二人はロザリンドの本体を知っていて、わざと戯れているのだと考えてもいいのだ、という説もある」(阿部知二「解説」、p. 190)と書かれていて、故阿部知二先生はひょっとしたら見たことあったのかもしれない。ケンブリッジ版『お気に召すまま』の注釈にも、1958年にドイツで、1983年にノルウェーでそいう演出があったという先例がひいてあるので(p. 184)、全く新しい演出というわけではないと思うのだが、それでも比較的珍しいと思う。これはけっこう面白い解釈だと思うのだが、ただオーランドーがとても賢く見える一方、自分の正体がばれたことに気付いていないロザリンドがちょっと鈍く見えるところが欠点かなと思う。ヴィジュアルや他の点ではオーソドックスだが、ポイントポイントで珍しい演出を仕込んでまとめるというプロダクションなので、こういうものを見られて大変良かったと思った。

今回の連載は「あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判」です

 wezzyの今回の連載記事は「あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判 」です。これは私がふだんからすごくイヤだなと思っていたこと、つまり文芸批評界隈に蔓延する近代小説中心主義と男性中心主義について書いたもので、複数の論考の古典軽視、非小説ジャンルの軽視、歴史軽視を問題にするものです。

 

 文学の定義に関する議論なのですが、私の論考では完全にシンプルに「主に言語を用いる芸術」と定義しています。「主に」としたのは、演劇とか絵本とかは、かなりの部分が言語であっても、言語でない表現手段が入ってくるからです。

 

 なお、これを書いていて思ったのですが、この論考はかなり自分でも不思議な内容だと思う…というか、古典をきちんと評価し、文学の可能性を信じようというある意味では超オールドスクールなことをしているにもかかわらず、理論的にはポストモダンというか、静的な区切りなどを拒否する方向性です。ただ、自分としては常にここで書いたようなこと、つまり記述的な態度をとればかなりいろんなものが文学を名乗っていて文学として研究されているのは自明なんだし、「こんなのは文学じゃない」などとは言ってはいけないということを信じて研究や批評をしてきたので、不思議に見えたとしてもこれは全部私が普段から考えて納得していることです(年間百本芝居を見ていると、たまにとんでもなく演技などが崩壊したのにあたって「こんなん芝居じゃない!金払ってコピー室のゴミ箱でも見てたほうがまだマシ!」のような暴言を吐くこともないわけではないのですが…)。

 

 

セイチェント III レクチャーコンサート「過去の将来」 ~古楽と現代の狭間から~

 「セイチェント III レクチャーコンサート「過去の将来」~古楽と現代の狭間から~」を見てきた。前半はアンソニー・プライヤーの講演、後半は17世紀から18世紀の音楽の演奏だった。講演はわかりやすくて面白いもので聞き足りないくらいだったし、演奏のほうは全く知らなかった女性作曲家(バルバラ・ストロッツィ)の曲や、私のお気に入りであるヘンデル「辛い運命を嘆き」などを聞くことができてよかった。あと、実はテオルボ(講演ではこの楽器はテオルボじゃなく厳密にはキタローネなのではという話だったが)の生演奏をちゃんと聴いたのはたぶん初めてだったので、それも楽しかった。

産休に入って、生まれてから~『タリーと私の秘密の時間』(ネタバレ注意)

 『タリーと私の秘密の時間』を見てきた。

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 ヒロインであるマーロ(シャーリズ・セロン)は仕事も母親業も頑張っている女性だが、生意気になってきたサラと手のかかるジョナを抱え、3人目のミアも生まれてきて、疲労で精神的に参っていた。このため、タリー(マッケンジー・デイヴィス)という子守を雇うことにする。タリーは若くてマイペースで生き生きした女性だが大変有能で、マーロはやっと休めるようになるが…

 

 これ、宣伝はなんかほっこり女性ヒューマンドラマみたいな感じになっているが、全然そういう映画ではない…というか、出産や育児の描き方がかなり今までの映画と違うし、途中からだんだんちょっとずつ話がおかしくなってくる。まず、マーロが産休に入るあたりから始まるので、既に2人の子どもで手一杯の家が、3人目の出産の疲労でさらにメチャクチャになっていく過程が描かれるのだが、これは今までの映画ではあまり見かけないタイムスパンのとり方だ。さらにマーロの産後のトラブルの描写が大変リアルで、おっぱいが張るわ母乳が漏れるわ、産後の健康問題をこんなに克明に描写した映画は珍しい。このあたりは革新的と言っていいと思う。

 

 それから、「あれれ?」みたいな感じでだんだん話に怪しい雰囲気が漂いはじめる。ネタバレになるのであまり詳しくは言えないのだが、マーロ夫妻はそんなにお金持ちではないはずなのに、毎晩プロの子守であるタリーを雇っていて、リッチな兄夫婦クレイグからお金を借りている気配もない。タリーのバックグラウンドがイマイチはっきりせず、ぼんやり描かれていて身元も不審だ。タリーとマーロが不自然なくらいすぐ仲良くなる(ベクデル・テストはミアの世話の話ですぐにパスする)。それから最後にえげつない開示があり、タリーが抱えていたとんでもない問題が明らかになる。

 

 この映画のいいところは、完璧を目指してはいるが明らかに良い母にはなれていないマーロを糾弾するのではなく、最後は夫が受け入れる方向性で落としているところだと思う。この映画は母性を理想化するようなことはなく、またトラブルを抱えている母親をやたら悪く描いたりするわけでもなく、一見元気で有能に見える母親にもいつでも問題が起こりうるのだというようなスタンスをとっている。病気の描き方には賛否両論ありそうだし(脚本家のディアブロ・コディは『JUNO/ジュノ』の時に中絶の描き方がかなりおかしくて、今回も助産婦などから産後の健康問題の描き方が正確でないと批判が出ている)、ちょっと強引に思えるところもあるが、産後の健康問題をひるまず扱っていて、さらに母親を非難していない点だけでもかなり評価できると思う。