何度フラれても、ちゃんと自分で立ってる~『ロケットマン』(ネタバレあり)

 『ロケットマン』を見た。言わずと知れたエルトン・ジョンの伝記映画である。

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 脚本がリー・ホール、ジェイミー・ベルが出演していて、ミュージカル版『ビリー・エリオット』に音楽を提供したエルトン・ジョンの伝記映画ということで、かなり『ビリー・エリオット』に関連が深い作品だ。話の構造も似ており、芸術家としての才能を持っているがあまり良い環境で育ったとはいえない少年の物語である。とはいえ、伝記というにはかなりファンタジーの要素が入っており、ミュージカルでもあるし(エルトンの代表曲が人生の岐路にあわせて出てくる)、だいぶ脚色があると思われる。

 お話は舞台衣装を着たままのエルトン(タロン・エジャトン)が依存症のミーティングにやって来て自分の半生を回想するという枠に入っている。エルトン(本名はレジナルド・ドワイト)はあまり仲の良くない両親のもとで育ったが、幼い頃からピアノの才能を発揮し、王立音楽学校に入学、やがてバンドでピアノを弾くようになる。そのうちにエルトンは作詞家のバーニー(ジェイミー・ベル)と出会い、唯一無二のコンビになって大成功する。しかしながら突然スターになったエルトンは酒や薬に溺れるようになり…

 

 まず、この映画は『ボヘミアン・ラプソディ』の10倍は面白い。エルトン本人がかかわっていて、自分の人生はPG-13じゃないからということでセックスやドラッグの話を避けないようにしてもらったらしいのだが、それが功を奏しており、ファンタジーなのに妙に生々しい質感がある。さらに、『ボヘミアン・ラプソディ』に比べると、モノガマスな関係を礼賛するみたいなオチになっていないところもよい。映画の中でエルトンが酒やドラッグに走る原因のひとつとしては、自分が愛されたいと思っている相手に愛してもらえないということがある。母親のシーラはエルトンにかまってくれないし、ゲイだとカムアウトしたエルトンに対して「あんたはまともに愛されることはない」みたいなひどいことを言う。エルトンにとってこの言葉は言われる前からうすうす感じていた空気中に漂う呪いのようなもので、ひとりでずっと孤独だった。心から愛しているバーニーには思ったような形で愛を返してもらえず(バーニーは自分なりのやり方でエルトンを心から愛してるのだが、ストレートの色男でエルトンの恋人にはなれない)、最初に情熱的に愛し合ったジョン・リード(リチャード・マッデン)からは裏切られる。そういうわけで愛してほしい相手にフラれ続けたエルトンはボロボロになって酒や薬にハマってしまうわけだが、エルトンが立ち直るきっかけは誰かに愛されたとかじゃなく、リハビリで自分を見つめ直して、自分と自分の芸術が大事だということを再認識したからだ。最後はエルトンがバーニーと仲直りし、"I'm Still Standing"(「まだ立ってるよ」)を歌ってカムバックして終わるのだが、この、他人に愛されるとかじゃなく自分を愛して立ち上がることが大事だというオチはものすごく元気が出る。この映画で描かれているエルトンとジョンのラブシーンは情熱的で美しく、同性愛のセックスをポジティヴに描いているのだが、一方でこのお話は王子様と王子様は幸せに暮らしました、という話ではない。王子様はフラれても自分で立ち上がれたから、この話はハッピーエンドなのだ。

 

 さらに『ボヘミアン・ラプソディ』より断然私が好きだったところとして、この映画はエルトンが子どもの頃どういう音楽に親しんできたかちゃんとわかるように作られている、というのがある。子どもの頃はクラシック音楽を1回聞いただけで演奏できてしまう神童で、ティーンの頃はエルヴィス・プレスリーアメリカのソウルにハマっていた、というふうに、エルトンには幅広い音楽の素養がある。さらにエルトンがアメリカのソウルグループのバックバンドで働いていた時、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンであるウィルソンに「どうやったらポッと出のガキンチョがソウルマンになれるかな?」と聞くところがあるのだが、エルトンの音楽がソウルからかなり影響を受けていることを考えると、このあたりは黒人音楽にリスペクトを示した作りになっていると言える。ただしグラムロックの影響はあまり描かれていなくて(エルトンが70年代初頭にいきなりど派手になるのは明らかにグラムロックの影響で、『黄昏のレンガ路』はグラムのアルバムである)、『ボヘミアン・ラプソディ』でもこのあたりが全く触れられていなかったことを考えると、ちょっと残念だ。グラムだけの歴史映画がそろそろ必要だと思う(『ベルベット・ゴールドマイン』はグラムについてのファンタジー映画で、テイストとしては『ロケットマン』にかなり似てはいるのだが、史実には基づいていないので)。

 

 なお、この映画はベクデル・テストはパスしない。

田舎あるある歴史もの~The Best of Enemies (ネタバレあり)

 飛行機内でThe Best of Enemies を見た。タラジ・P・ヘンソンサム・ロックウェルが、それぞれ実在する公民権運動家アン・アトウォーターとKKK支部長でのちに労働運動家になったC・P・エリスを演じるという作品である。実話をもとにしている。

 1971年にノースカロライナ州ダラムで、黒人学校の火事をきっかけに学校の人種統合が提案されることになり、当局は「シャレット」、つまり市民を集めて短期間で集中的に行う議論セッションシリーズの専門家であるビルにシャレットのオーガナイズを依頼する。公民権運動家アンとKKK支部長であるCPも参加することになる。いろいろ問題はありつつも、アンとCPが少しずつ相互理解を深めていく一方、地元のKKKメンバーはシャレットの評議員に選ばれたリベラルな白人メンバーに脅迫をかけはじめ…

 非常に地味な作品で、もう少しアンとCPの関係を丁寧に描いたほうがよかったのではという気もするが、全体的にはヘンソンとロックウェルの演技のおかげで非常に興味深く見ることができた。この映画の面白いところは、人種差別が激しいアメリカの田舎が舞台でありながら、日本の田舎でもふつうにありそうなあるある話を描いていることだ。CPはKKKのトップでヤバい人なのだが、ガソリンスタンドを経営しており、KKKに入ったのも地元の人たちのためにいろいろなことをしたいという動機からで、コミュニティでは真面目で信頼できる人として尊敬されている。日本でも田舎に行くとこういう政治的にヤバいけど近所づきあいがしっかりしてるとかちゃんとした店をやってるとかいう人が力を持っていたりするので、アメリカだからこうなんだというわけではない。KKKが妻を搾取していた『ブラック・クランズマン』に比べると、CPの妻メアリ(アン・ヘイシュ)がわりと夫の活動に冷ややかで人種差別よりはご近所付き合いを重視していたり、評議員に選ばれた人たちがKKKから説得工作を受け、さらに脅迫までされるあたりもいかにも田舎である。昔のアメリカの話だが、住民が教育政策をめぐってモメて脅迫や工作が起こるなんで、どこの田舎でもありそうな話だ。

 

 一方、アンがCPを助けてやる理由をもう少しちゃんと描いたほうがいいと思った。CPにはダウン症の息子がいて近くの療育施設に入っているのだが、CPの一家はちゃんとした福祉を受けられておらず、息子は知らない人がいるとパニックになるにもかかわらず、2人部屋に入れられてしまう。これを知ったアンが今までの公民権運動家としてのコネを使って息子を1人部屋に移してやるのだが、アンがそういうことをした動機はほのめかされる程度であまりしっかり描かれていない。ここはもうちょっとアンの行動や考えをじっくり描いたほうが、黒人が白人に何の理由もないのに優しくしてあげるみたいな印象が薄れるので、そのほうが良かったのではと思う。この1件や、KKKによる評議員への強引な働きかけをきっかけに、CPはKKKの活動よりも公民権運動みたいなスタイルのもののほうが地元の労働者の利益になるのではと思い始め、最後は人種統合に投票することになる。これが実話だというのだからちょっと驚きだ。

ロマンティックコメディ版『スクリーム』~『ロマンティックじゃない?』(ネタバレあり)

 行きの飛行機で『ロマンティックじゃない?』を見た。日本ではネットフリックスで配信されているらしい。

 ヒロインのナタリー(レベル・ウィルソン)は母親から、ロマンティックコメディ映画は恋愛を理想化するもので、ナタリーのようなたいして魅力的なわけではない女の子には起こらないものだ、と言われて育った。長じてロマンティックコメディ嫌いになったナタリーだったが、ある日事故に遭い、その日から彼女の人生は突然、ロマンティックコメディそっくりになってしまう。自分のことなんか名前すら覚えていなかったはずのハンサムなブレイク(リアム・ヘムズワース)が急に言い寄ってくるようになり、ワードローブが突然オシャレになって…

 ぽっちゃりめで自信のないヒロインがある日突然、事故に逢って…という立ち上がりなちょっと『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 』に似ているのだが、あれよりもずっとロマンティックコメディというジャンルの型をふまえて、それに対する諷刺と部分的な肯定を仕込んでいるぶん、よくできている。ナタリーが序盤のほうで、ロマンティックコメディのクリシェとして、自分のストーリーラインを持たないゲイの親友が出てくるとか、意味無く女同士がいがみあっているとか、あるあるネタをえんえんと話す場面があるのだが、その後それが全部ナタリーの身に起こるようになるのである(これはまあ、最後にどうしてそうなるのかオチがつくのだが)。これはけっこう面白いというか、『スクリーム』がホラー映画についてやったことをきちんとロマンティックコメディについてやってる、ポストモダン的なジャンル映画だと思う。『プリティ・ウーマン』や『ベスト・フレンズ・ウェディング』みたいなジュリア・ロバーツ主演のコメディを中心に、オードリー・ヘプバーンの映画とか、さまざまな映画への言及を折り込んでいる。最後にかなりロマンティックコメディらしいオチがつくのはちょっと定形すぎるが、そうは言ってもけっこう楽しめる作品ではあると思う。

 なお、アシスタントのホイットニーとナタリーが話す場面でベクデル・テストはパスする。

ザック・エフロンが殺人鬼テッド・バンディを演じるExtremely Wicked, Shockingly Evil and Vile (『テッド・バンディ』)

 Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vileを飛行機内で見た(10月に追記:日本公開が決定し、『テッド・バンディ』というタイトルになる予定らしい)。ザック・エフロンが悪名高い猟奇殺人鬼テッド・バンディを演じるという作品である。

 視点人物はシングルマザーのリズ(リリー・コリンズ)だ。リズはある日、バーでハンサムなテッドと出会って意気投合する。娘のモリーにも優しいテッドは理想の恋人に見えたが、やがてテッドが逮捕され…

 脚本にはちょっとたるいと思われるところもある。何も悪いことをしていないのに殺人鬼と深くかかわってしまった女性が主人公なので、方向性としてはもっとリズの精神的問題を掘り下げるほうに行ったほうがよかったのでは…と思うが、この映画は全体的にかなりザックの演技に頼っている。ザックが演じるテッドは極めて魅力的で、出会った人間が誰でも騙されてしまいそうな感じの良さがある。その好感度をフル活用してリズにも殺害対象の女性にもアプローチするわけだが、いったい何がリズと他の被害者達を分けたのか、そのあたりが非常に怖い。どうもテッドはリズのことは本気で気に入っているらしく、得体の知れないところがある。なお、表題の言葉を判決で口にする判事役でジョン・マルコビッチ、リズの同僚役でハーリー・ジョエル・オスメントが出演しており、脇役陣も充実している。

 

 この映画が批判されているのは、まさにザック演じるテッド・バンディが魅力的すぎるというところだ。暴力のフェティッシュ化などと言われているが、映画内では断罪され恐ろしい人物として描かれているものの、やはりザック演じるバンディの魅力には抗いがたいものがある(そこが怖いのだが)。しかしながら、上の記事で指摘されているように、実際には殺人犯というのはこんなに魅力とカリスマと才気を備えているわけではなく、犯罪に関して誤ったイメージを広げる、史実を美化しすぎでは、という批判もあるそうだ。その危険性はたしかに指摘しておいたほうがいいかもしれないと思った。

アメリカの妖精譚~『アス』 (ネタバレ超注意)

  飛行機の中で『ゲット・アウト』のジョーダン・ピールの新作、『アス』を見てきた。

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 ヒロインのアデレード(ルピタ・ニョンゴ)は子ども時代、サンタクルズのビーチのミラーハウスで自分にそっくりな分身を見かけて以来、しばらく言葉を話せなくなった経験があった。大人になり、幸福な家庭を築いていたアデレードは、家族とともに同じサンタクルズのトラウマ源になったビーチに行くことになる。ある夜、ビーチハウスにアデレードの家族と生き写しのドッペルゲンガー一家が現れ…

 

 とりあえず純粋にけっこう怖いSFホラーである。最初はアデレードが分身に出会ったことが原因でアデレードの家族だけがドッペルゲンガーに狙われているのかと思って見ていたら、お隣さんのタイラー家も自分たちのドッペルゲンガーに襲われ、しぶとく抵抗するアデレードの一家と違ってかなりあっけなく殺されることになる(タイラー夫妻はアデレードと夫のゲイブに比べて夫婦仲がうまくいってなさそうだったので、そのへんが不利だった)。その後はアメリカ史、とくに奴隷制度などを折り込んだかなり大がかりなホラーになる。

 

 とくに何も考えずに見ても十分怖くて楽しめる映画なのだが、結末まで見ると考えざるを得ない…というか、このドッペルゲンガーが何を象徴しているのかということをどうしても考えてしまう。タイトルはUsだが、これは「わたしたち」という意味である一方、USと大文字で書くとアメリカ合衆国ということになるし、ドッペルゲンガーたちが「我々はアメリカ人だ」というところもあり、アメリカのなんらかの状況を象徴しているのは間違いない。アメリカにはよく知られていない地下道がいっぱいあるというくだりは奴隷の逃亡を助けていた19世紀の活動である「地下鉄道」を思わせるし、またドッペルゲンガーたちがウサギを食べているというあたりはアメリカ南部の民話であるブレア・ラビットの話などをちょっと思い出したりもしたので、奴隷制度の象徴であるのかもしれない…一方、ドッペルゲンガーは人種を問わずに存在する設定であり、むしろアメリカ合衆国においてミドルクラス以上の人々が見ないようにしてきたさまざまな困窮者、被差別者を象徴しているのかもしれない。

 

 そして(これ以降ネタバレが激しくなるので注意)、最後まで見て思ったのは、これはアメリカ式の妖精譚なのじゃないかということだ。あまりはっきりはネタバレしないようにできるだけぼかして書くが、基本の設定がアイルランドとかに分布している妖精の取り替え子、つまりチェンジリングのお話とほぼ同じなのである。ブリテン諸島では、子どもの様子がおかしいと妖精が子どもをさらって取り替えたのだとかいう話になるのだが、アメリカには妖精がいないので、子どもの様子がおかしいのは政府の陰謀とかになるんだな…と思って見ていた。よく考えるとピールの前作『ゲット・アウト』も、キルケーの神話や『赤ずきんちゃん』などの昔話が根底にあるのかもしれないので、ピールのホラーと民話の基層というのは考えたほうがいいかもしれない。