面白いところはたくさんあるが、現代的な演出とあっているのかは疑問~『オイディプス』(演出ネタバレあり)

 マシュー・ダンスター演出『オイディプス』を見てきた。言わずと知れたソフォクレスギリシア悲劇である。テーバイの王オイディプスの殺人と近親相姦にまみれた呪われた運命を描いた作品で、現存する最古のミステリ戯曲でもある。

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 あらすじは超有名なのでまあ言うまでもないと思うが、テーバイの王オイディプス(市川海老蔵)が主人公である。オイディプスコリントス出身で、この国にやってきて王妃だったイオカステ(黒木瞳)と結婚し、子供も生まれて幸福に暮らしていたが、やがてテーバイを疫病などの災厄が襲うこととなる。この危機を打開すべく神託を求めたオイディプスは、先王ライオス殺しの犯人がテーバイにいるのが汚れの原因だと知り、犯人をつきとめようとする。調べがすすむうちに、オイディプスは自分がかつて三叉路で殺してしまった見知らぬ相手がライオスであり、さらに自分はコリントス王家の実子ではなく、ライオスが自分の父、妻のイオカステが実母であるということに気付いてしまう。イオカステは自殺し、おぞましい運命を知ったオイディプスは自分の目をつぶしてテーバイを出る。

 セットは非常に現代的で、放射能に汚染されて隔離されたシェルターのようなったテーバイが舞台である(原著の疫病がおそらくは放射線障害などに読み替えられている)。このセットがくせもので、一見核戦争の後のようでもあるのだが、防護服の使い方などは福島とかをヒントにした原発事故の後なのではないかと思わせるところもある。これは最後にクレオン(高橋和也)とコロスのリーダー(森山未來)が、市民向けの放送で白々しく「美しい国」とか「テーバイを取り戻す」などというスローガンを唱え始めるところにつながっており、どうもオイディプスが出て行ってもテーバイはさっぱり良くならないのではないないか…という大変暗い余韻で終わる。これだけ政治諷刺が強い演出はあまり日本では見かけない。安倍政権批判を秘めたギリシア悲劇である。

 問題は、この現代政治と密接にリンクする演出が、中盤のオイディプスの悲劇とあんまりしっかりかみあっていないことである。ギリシア悲劇を政治的に演出するというのは全く問題ないというか、そもそもギリシア悲劇には政治的なところがたくさんあるのでうまくやれば大変面白くなるはずなのだが、この演出はちょっと全体の整合性をあまり考えていないように思えるところがあった。オイディプスが歌舞伎役者、イオカステは元宝塚ということで、主役のカップルは現代の服装をまとっていても、リアルな現代劇というよりは古典の世界から抜け出てきたような、ある意味で芝居がかった格調の高さを有している。そういう2人がいかにも現代的な軍服のクレオンと宗教指導者であるコロスのリーダーに政治を乗っ取られるという結末になるわけだが、腹に一物ありそうなクレオンやリーダーを見ていると「クレオンが持ってきた神託は本物なんだろうか…」「リーダーが唱えている信仰は本気なんだろうか…」などと疑いが出てきてしまう。つまり、ご神託がフェイクニュースで、オイディプスが途中で疑心暗鬼になってクレオンの謀反を疑うのは実は正しかったのではないかという疑いが頭をもたげてしまうということだ。

 しかしながら、そういう「これは全部クレオンとリーダーによる陰謀だった」という解釈をとる場合、いかにも敬虔な預言者テイレシアスの言葉もクレオンの影響下にあるということになってしまうし(これはテイレシアスの正直さと賢明さからしてちょっと信じがたい)、オイディプスの悲劇も運命に弄ばれる人間の悲しみというよりは、1人だけ政治的陰謀に気付いていないなんか間抜けでかわいそうな人の話ということになってしまう。そうなるとオイディプスの悲劇が一気に矮小化されてしまうように思う。一方で海老蔵オイディプスをかなり古典的で高貴な悲劇的人物として演じていて、ここはストレートにギリシア悲劇らしく面白く、悲しい。この古典的オイディプス像と現代的な政治性があんまりしっかりかみあっていなくて、パーツごとだと面白いのだが全部組み合わせるとなんか斜めになっちゃってるパズルみたいな印象を受けた。

受動的な創られたヴィラン~『ジョーカー』(ネタバレあり)

 『ジョーカー』を見てきた。『バットマン』の悪役であるジョーカーがどうやってジョーカーになったのかを描いた作品…というのは建前で、ほとんど別の映画である。

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 ゴッサムシティに住むアーサー(ホアキン・フェニックス)はピエロの仕事をしながら母ペニー(フランセス・コンロイ)の介護をしている。アーサーは突然笑い出してしまうおそらくトゥレット症と思われる症状を抱え、精神的にも不安定でカウンセリングと投薬を受けているが、それでも憧れの仕事であるスタンダップコメディアンを目指して頑張っていた。しかしながらゴッサムシティが荒廃するとともにアーサーの人生はどんどん下り坂になる。ピエロの仕事の最中に悪ガキどもに襲われ、仕事はクビになるし、市当局が福祉を打ち切ったせいでカウンセリングも投薬も受けられなくなる。度重なる不幸のため限界になったアーサーをどんどん狂気が蝕んでいく。

 

 あらすじだけ書くと顕著だが、これ、テーマとしては『わたしは、ダニエル・ブレイク』とたぶんほとんど同じである。真面目に働いていて介護もやっていた人が福祉を切られたせいでどんどん人生が詰んでいき、人間としての尊厳のために抵抗を…ということで、たぶんケン・ローチトッド・フィリップスは同じようなものを描きたいと思われる。しかしながらアーサーがダニエルと違っているのは、心の病気のせいもあってアーサーが非常に消極的で、人から何かヒントやアイディアをもらわないと抵抗も悪事もできないということだ。ダニエルはまだ自分で抵抗する元気があったが、アーサーはあまりにもいろんなものを剥奪されていて自分から行動を起こすことができず、アメリカンコミックのヴィランとは思えないほど受動的だ(そもそも妄想が多くて信頼できる語り手ではなく、現実を明確に認識するよりは頭の中で処理しているというのもこの受動性と関係あるかもしれない)。この映画でアーサーが行う復讐や悪事のほとんどは自分で独自に考えついたものではなく、周りから示唆されて思いついたものである。特徴であるピエロメイクは仕事で使っていたものだし、銃で身を守ろうとして殺人事件を起こしたのは職場でランダルに示唆されたからだし、自宅での殺人は恨んでいる相手が訪問してきたからだし、テレビ出演も自分で働きかけたのではなく、転がり込んできたものだ。ジョーカーという名前すら、自分でつけたものではない。母親殺しはちょっと様子が違うが、ここはおそらくプロットの転換点だ。アーサーは(どうやら血縁がないかもしれないのだが)母ペニーと同じ恋愛妄想を抱えていて、ここは象徴的に自分の一部も殺しているのだろうと思われる。自宅で元同僚のギャリーを殺さずに逃がしてやることからもわかるように、この作品のアーサー/ジョーカーは手当たり次第に積極的に悪いことをするのではなく、発生した状況に応じて嫌いな相手を血祭りにあげているだけである。正直、アーサーに大がかりな悪事をやり遂げる才能があるようには思えない。アーサーは心の病を抱え、自分を虐めた相手に復讐しようとしているだけの人である。もちろん復讐のために残虐な殺人をするのは倫理的に問題があるが、明らかに苦労と病気が原因で、他人を無差別に傷つけることじたいが楽しいとか、他人をコントロールするのが楽しいというような側面はあまり見られない。

 

 アーサーはそういう受動的なヴィランなのだが、どういうわけだか周りが勝手に彼を政治的反逆の旗印とか悪の天才に祀り上げてしまうという点で、これはメディアサーカスが創ったヴィランとしてのジョーカーの物語である。しかしながら、アーサーの貧困や病気についてはえらくしっかりリアルに描き混んでいる一方、このへんのメディアの描き方は正直あんまりうまくいってない。まず、舞台が80年代初めくらいの設定で主要メディアが新聞とテレビの時代で、ネットによる拡散の描写が使えないので、殺人ピエロ像が人気になる経過はあんまり立ち入らずにちょっとお茶を濁している。さらにアーサーのビデオがテレビ放映されて人気になる下りは明らかに今のバイラルビデオのそれなのだが、バイラルビデオなんかない時代にこんなことあるかなぁ…という印象を受けてしまう。

 さらに、メディアという点では、なんらかの情報とか感情を伝えるものとしての笑いの描き方とか音楽の使い方にもあまり一貫性が見られないと思う。私はこの映画みたいなネガティブな「笑い」観は正直あまり好きではないのだが、それは別としても、全体的に台詞を用いたスタンダップと身体を使った動きのコメディの意味付けがあまりはっきりしていないように思った。あと、音楽の使い方には非常に一貫性がない…というか、音楽はアーサーの主観にあわせて彼の演劇性を引き出すようなものだけ使うようにして、たまに出てくる50年代頃までの華やかなスタンダードポップスを前面に押し出した派手な音風景にしたほうがいいと思うのだが(根暗なヤツが聴いている明るいスタンダードポップス以上に悲しい音楽なんてあるだろうか?)、なんかやたらと現代っぽい重くて暗い効果音風の音楽を使いたがるのがわざとらしい。ジョーカーとなったアーサーが『君の名は。』に出てきそうな階段で派手なポーズをとるところで"Rock and Roll, Part 2"が流れるのはちょっとびっくりした…というか、なにしろこの曲はとても変な曲である上(ものすごく芝居がかっていて、かつ歌詞が無い)、アーティストのゲイリー・グリッターはペドファイルで逮捕されていて、悪役の誕生を悪役の意識に入り込んで示す曲としては趣味がいいかはともかく非常に考えられた選曲だと思うのだが、やっぱりなんか途中でキザな重い音に変わってしまうところはどうかと思った(なお、ここも本来ならシナトラとかを長く使うべきなんじゃないかと思う)。

 

 そういうわけで、格差社会メンタルヘルスの問題をしっかり扱っているという点ではこの映画は極めて現実に即したリアルな映画だと思うのだが、一方でそれ以外のところではいろいろアラも見える作品だと思った。これはたぶんこの映画がかなりホアキン・フェニックスの演技に頼っているからで、演技に頼れないところでちょっとボロが出ているのじゃないかと思う。

 なお、この映画は非常に男性目線な映画で、ベクデル・テストはパスしないし、最後に出てくる暴動の参加者が大部分男性なあたり、まあトッド・フィリップスが女性をちゃんと描いた映画なんか撮るわけないしなーと思って見ていたのだが、一方でこれはインセルとか「今まで扱われていなかった弱者としての白人男性」みたいなものを描いた映画ではないだろうと思う(一部にそういう批評もあるようだが)。というのも、少なくとも映画に出てくる描写だけ見ているかぎりではアーサーは母親以外の女性に憎悪を向けていなくて、ミソジニーにかられた暴力を振るっているわけではない。さらにこの作品は明らかに心の病を抱えた人についての映画で、病気を抱えて福祉を受けている人というのはむしろケン・ローチみたいな監督が撮ってきた人たちだろうと思う。インセルが好きそうな映画ではあるが、たぶんインセルを描いた映画ではない。

次から次へと出てくる家庭問題~NTライヴ『みんな我が子』

 NTライヴでアーサー・ミラーの『みんな我が子』を見てきた。ジェレミー・ヘリン演出で、オールドヴィックで上演されたものだ。初演は1947年で、いかにも第二次世界大戦直後の作品だ。この演目を見るのは初めてである。

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 第二次世界大戦直後のアメリカ、ケラー家が舞台である。ケラー家の父ジョー(ビル・プルマン)と妻ケイト(サリー・フィールド)、息子のクリス(コリン・モーガン)は一見、ご近所付き合いもしっかりしているアメリカの典型的な家庭のように見える…が、実はさまざまな問題を抱えている。最初に提示される大きな問題は息子のラリーの件だ。ケイトは息子のラリーが戦争で行方不明になったことについて、死を受け容れられずにきっといつか生きて帰ってくると信じている。ところが、話が進むにつれて、この家族はさらに大きな問題を抱えていることが明かされ…

 

 大変構成の巧みな芝居で、家族が抱えているふたつの大きな問題が悲劇的に融合するラストはたいしたものだ。戦争で儲けることやあくどい商売をすることの是非が大きなテーマになっていて、第二次世界大戦が舞台とはいってもまるで現在の芝居のようだ。このあたりの倫理観についてはケラー家の中でも大きな意見の食い違いがあり、みんなうすうすは気付いてはいるが口に出さないことが明るみに出るにつれて、事態がどんどん行き詰まっていく。とくに戦争中に工場で儲けたジョーと、従軍して九死に一生を得たクリスの倫理観の隔たりは大きい。

 

 役者陣は皆とても達者で、なんかものすごく「典型的なアメリカのおじちゃま」風なアクセントでしゃべるビル・プルマンと貫禄のサリー・フィールドはもちろん、一時期ゴシップサイトで次のジェームズ・ボンド候補だとか言われていたくらいブリテン諸島的な個性を持ったアイルランド系のコリン・モーガンが完全にこの2人の息子としてアメリカ人っぽく溶け込んでいたのが良かった。あと、セットがとても良い。真ん中に家があって両脇を木が茂った林というか藪というかが覆っているというものなのだが、これがケラー家の立ち位置を非常に象徴的に表現している。木の間を通って両隣から隣人がやって来るという点ではケラー家は外とつながっているのだが、一方でこの林はケラー家をある程度外から保護するというか、ケラー家にとっては見たくないものを遮り、見たいものだけ見せるような役割を果たしていると言える。

巨大な名匠、最低のボス~『キューブリックに愛された男』+『キューブリックに魅せられた男』(ネタバレあり)

 『キューブリックに愛された男』と『キューブリックに魅せられた男』を試写会で見てきた。どちらもスタンリー・キューブリックの助手をしていた人に関するドキュメンタリー映画である。前者はキューブリックの運転手兼世話係で家庭における助手だったエミリオ・ダレッサンドロ、後者は映画製作分野の助手だったレオン・ヴィターリに焦点をあてている。

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 エミリオとレオンはかなり違う個性の人なのだが、キューブリックとの関係は似ている…というか、キューブリックは自分が気に入ったスタッフをけっこう突発的に雇い入れ、信頼できると思うとどんどん要求を増やしていって、とてつもない献身を要求するようになる…ということを繰り返していたらしい。エミリオもレオンもキューブリックのペースに巻き込まれ、際限ない献身を要求され、もともと計画していたキャリア(エミリオはレーサー、レオンは役者)をあきらめ、私生活がどんどん削られていく。それでも途中でイタリアに一度帰ったエミリオはまだマイペースというか、人生をキューブリックだけにしない努力をしていたのだが、レオンに至っては全く人生の全てを捧げてしまったと言っていい。キューブリックのほうも、エミリオに対してはちょっと甘えて相手の親切心をくすぐるような態度を見せることもあったようだが(『アイズ・ワイド・シャット』を作った時の話なんかまさにそうだ)、レオンに対しては暴君だったらしい。

 

 そういうわけでキューブリックは最低のボスなのだが、問題はこの最低ぶりは全て、良い映画を作りたいという完璧主義的理想から来ているということだ。少なくともこの2作に出てくるかぎりでは、キューブリックのとんでもない要求は全て自作の芸術的な完成度に直接的にかかわっていることで、個人的に誰かが嫌いだとか、自分がいい目をみたいというようなこととは関係ない。これは最近問題になっているハーヴィ・ワインスティーンみたいな、映画のクオリティとは全く関係ないところで(むしろ映画のクオリティの低下につながるようなことをしてまで)私腹を肥やしていた連中とは一線を画している。このため、手伝っているほうもキューブリックに悪意がなく、ボスが自分の映画のクオリティにとんでもない情熱を注いでいることだけは理解できるので、ついつい助けを打ち切るタイミングを失ってそのペースにのせられてしまうというところがあったようだ。芸術的な共依存みたいな関係で非常によろしくないし、キューブリックは巨大な名匠かつ最低のボスなのだが、一方でそういう人生を生きて誇りにしているエミリオやレオンについては悲惨な人生として切り捨てるようなことは全くできない…というか、むしろ本当に頑張りましたね、あなたの業績は偉大です、と驚嘆するほかないのだろうと思う。これは実際の人生であってフィクションではないので、エミリオやレオンの人生と、その素晴らしい仕事ぶりを否定することは誰にもできない。こういう映画作りの舞台裏のスタッフの仕事ぶりをとりあげることじだいに価値があると思うし、間違い無く興味深い。

労働運動とフェミニズムを掘り下げた歴史もの~『FACTORY GIRLS~私が描く物語~』(ネタバレあり)

 『FACTORY GIRLS~私が描く物語~』を見てきた。アメリカと日本の合作で、19世紀にマサチューセッツ州ローウェルの繊維工場で働いていた女性たち(ローウェル・ミル・ガールズ)の活動を描いた歴史ものミュージカルである。かなり脚色があるにせよ、実在の人物を登場させており、史実をもとにしている。 

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 お話は枠に入っており、語り手であるローウェル出身の作家ルーシーが、過去に出会った尊敬すべき女性たちを回想する、という形になっている。ヒロインのサラ(柚希礼音)は好きになれない相手との結婚を避け、故郷の農場を出て工場に働きにやってきた。そこで女子工員による文芸誌『ローウェル・オファリング』を編集しているハリエット(ソニン)と出会い、物書きの才能を開花させる。ところが工場と女子工員たちの間で労働条件をめぐる諍いが持ち上がり、労働運動家として活動しはじめたサラと、雑誌を守りたいハリエットの間に軋轢が…

 

 女子労働が女性に自分の自由になるお金や自己実現、それまでは出会えなかったような女性たちとの出会いをもたらしてくれたというポジティヴな面をしっかり描く一方、女性が市場で搾取されやすいということも明確に描いていて、一面的ではない深みのある作品だ。基本的には不屈の闘志を持って戦うサラの決断を肯定的に描いている一方、それなりに理想はあるのだが版元である工場に縛り付けられて悩むハリエットについても悪役ではなく、非常に人間味と奥行きのある人物として提示している。最後にサラとハリエットがふたりとも工場から追い出されて和解するあたり、「女の敵は女」みたいな構図は女性や労働者を分断しようとする人たちが作り出すニセの問題なんだ…ということをさりげなく提示していると思う。さらにこの2人に影響されてルーシーが作家になったということで、この作品は女性から女性への文化の継承をも描いている。全体的にとてもフェミニスト的なミュージカルだ。

 

 ただ、お話は非常に面白かったのだが、ちょっと日本語の台本・演出に練られていないところがあった気がする。作曲・作詞はアメリカから、脚本・演出は日本からという形で作った作品なのだが、かなり大事な情報をかなり短く、しかもそんなにわかりやすくはない台詞でさらっと提示して、お客さんが「えっ!?」と思っているうちに前に進んでしまう、みたいなところが何度もあった。ハリエットの過去や資本家たちが女子工員に対して行っていた企みなどの説明は「いや、そこもうちょっと詳しく書き込まないとダメでは?」と思ったし、最後の「10時間労働の権利を放棄するかわりに工場に残っていい」とかなんとかいう台詞は、私の聞き間違えでなければ工場側がとんでもなく問題ある行為をしているように聞こえたのだが、それ以上の批判もなく流れていってしまうのでちょっと煙に巻かれたような気分になってしまった。かなりよい役者を揃えているんだから、少し工夫すればあまり説明的にならずに台詞でいろんなことを表現できるはずで、大事な情報はもっと丁寧に提示したほうがいいと思う。

ピンターか、シェーファーか?~舞台劇みたいな映画『サラブレッド』(ネタバレあり)

 『サラブレッド』を見てきた。お金持ちの令嬢だが継父とうまくいっていないリリー(アニャ・テイラー=ジョイ)が、無感動でタフなアマンダ(オリヴィア・クック)と親しくなり、ドラッグの売人で未成年女子にちょっかいを出すのが好きなティム(アントン・イェルチン)を引き込んで継父殺害を企むというスリラーである。

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 PJの『乙女の祈り』やピーター・シェーファーの戯曲『エクウス EQUUS(馬)』なんかを下敷きにしているんだろうな…という感じのスリラーなのだが、一方で話のクライマックスを少女ふたりの感情的な絆に落とし込むよりは、アマンダが感情のないサイコパス的な少女であるということが逆に自己犠牲につながるというオチにしているのが面白い。実は感情が無いのはアマンダじゃなくて、一見感情的なリリーなのでは…?と思われるところがある。ベクデル・テストはこの2人の勉強に関する会話でパスする。

 

 ただ、全体的には映画的な展開の面白さよりは、テイラー=ジョイ、クック、イェルチンの演技を見る映画だなという印象を受けた。けっこう密室的で、舞台劇みたいである。アマンダがやたらと他人の会話の裏を読みたがるところはハロルド・ピンターみたいだし、愛憎入り交じった人間関係の描き方なんかは上にあげたピーター・シェーファーっぽさもある。会話をじっくり撮るところとか、最後の血まみれのヒロイン2人がソファに横になる場面でその後の経過の詳しい描写がないところとか、手紙で締めるやり方とかはまるでお芝居みたいだ。そんなことを思いながら見ていたら、監督のコリー・フィンリーは劇作家で、ピンターの影響を受けており、これが映画デビュー作らしい。最近見た映画の中では、マーティン・マクドナーの次くらいにスタイルが演劇的だと思う。これからどういうものを撮るのか楽しみだ。

 

 ↓あと、見ていてちょっとこの本を思い出した。補助線になるかもしれない。

サイコパスを探せ! : 「狂気」をめぐる冒険
ジョン・ロンソン
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閉鎖的な島と読む愉しみ~『ガーンジー島の読書会の秘密』

 『ガーンジー島の読書会の秘密』を見てきた。原作小説は既に読んでおり、なかなか面白かった。

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 舞台は第二次世界大戦直後のガーンジー島とロンドンである。ヒロインである作家のジュリエット(リリー・ジェームズ)は次作の調査をしていたが、ひょんなことからガーンジー島の農夫ドーシー(ミキール・ハースマン)からの手紙を受け取ることになる。ドーシーはガーンジー島で読書会を運営しているのだが、物資不足でいい本がなかなか入手できず、島に本を送ってくれそうな人を探すべく、たまたま手に入った古書に入っていた前の持ち主の住所をたよりにジュリエットに連絡してきたのであった。読書会に興味を持ったジュリエットは取材を開始するが、その過程でドイツ軍に占領されたガーンジー島の苦闘と住民たちのつらい記憶が少しずつ明らかになり…

 

 地味であまり新しさはない作品だが、似たような題材でやはり閉鎖的な田舎を舞台にしている『マイ・ブックショップ』なんかよりははるかに話に起伏があり、面白かった。読書会が戦争と占領に苦しむ人々の心に救いを与えたということを生き生きと描いているのがいい。ガーンジー島はかなり閉鎖的なところで、なかなか住民がジュリエットに戦時中のことを話してくれないというまどろっこしさがあるのだが、ジュリエットが粘り強く調査していろいろなことが観客に開示されていく。ベクデル・テストはジュリエットとアメリア(ペネロープ・ウィルトン)やアイソラ(キャサリン・パーキンソン)が読書会や他の女性登場人物について話すところでパスする。

 

 ただ、恋愛のプロットについては、ドーシーを演じるミキール・ハースマンがあまりガーンジー島晴耕雨読の暮らしをしている純朴で本好きな青年には見えない…というところがちょっと雰囲気を削いでいるかなと思った。何しろ『ゲーム・オブ・スローンズ』のダーリオ・ナハーリス役で、ちょっとワイルドでヨーロッパ大陸風の魅力がある色男なので、親友エリザベスの娘を引き取って育てているとにかく穏やかで心の優しい青年というには野性味がありすぎるように思った(あれならジュリエットが子供の父親はドーシーだと思うのも無理ない)。これはブリテン諸島の田舎を舞台にした映画ではたまにあることである(「ピアース・ブロスナンが田舎で商店やってるかぁ?」みたいな…)。