珍しい演出あり~言葉のアリア『オセロー』(ネタバレあり)

 八幡山ワーサルシアターで言葉のアリア『オセロー』を見てきた。佐々木雄太郎演出・構成によるもので、劇団としては第2回公演らしい。現代風の衣装で、真ん中に白い台があるシンプルなセットで上演するものである。

 このプロダクションの特徴はオセローを女優(月岡鈴)が演じていることだ。オセローの差異を人種ではなく、オセローが女の姿形をした男で、自分の男らしさに不安を感じているという演出にしている(オセローのジェンダーアイデンティティには何かもっといろいろ突っ込んだ演出上の設定が後ろにあるのかもと思ったが、表面上はいくぶん曖昧にしてある気がする)。ただ、この設定を生かすにはちょっとキャスティングに疑問がある。演劇では女優が男役を、男優が女役を演じるというのはかなりよくあることで、とくに最近はクロスジェンダーキャスティングが増えてきているので、芝居を見慣れている人なら、女優がオセローを演じていても容姿が女っぽいとかはあまり気にしなくなる。このため、女優がオセローを演じているということを焦点化するためには他の男役をかなりゴツくすべきだと思うのだが、このプロダクションではキャシオーも女優(大井川皐月)が演じており、かなり中性的な優男に見える。これでは、オセローが女の容姿だからデズデモーナがキャシオーに走ったのだというイアーゴーの讒言の説得力がなくなるというか、なんでそんなことでオセローが騙されるのかよくわからなくなってしまう。少なくともこういう演出方針にするのであれば、キャシオーに背の高い男優とかをキャスティングして、マッチョなイケメン風に作らないとよくわからないと思う。

 キャスティングも含めて、いろいろ野心的な試みではあるのだが、ちょっと技術的なところで準備不足が目立つという印象を受けた。とりあえずけっこうみんな台詞をかんでいる。最近のこんな状況ではろくに安心して稽古もできないだろうからある程度はしょうがないとは思うのだが、シェイクスピアなんだからもうちょっと流暢さを求めたいところだ。さらに、話の流れのために台詞を付け加えているところがあるのだが、ちょっと付け加えたところが説明的だったり、単調になりすぎているきらいがある。とくに最後の、オセローが自分の化け物扱いされた経験を語るところはもうちょっと説明的でないものにすべきだと思った。私の経験では、短いやりとりや時事ネタならともかく、シェイクスピア劇に長めの台詞を付け足すとなんかそこだけ下手に聞こえることもけっこう多いと思うので、これは注意したほうがいいと思う。あと、イアーゴーが悪事を企む場面でダンサーが出てきて踊るのはやめたほうがいい。独白の後ろで踊ったりすると、お客のほうは気が散るだけだと思う。

 

 ただ、このプロダクションで珍しいのは、オセローがデズデモーナを絞め殺すという原作で指定されている演出ではなく、刺殺するという演出をとっていることだ。実はオセローがデズデモーナを殺すところはかなり手順が不自然で、とっくに窒息死したはずのデズデモーナが突然しゃべって事切れるというあまりリアリティのない死に方になっている。これはちょっとおかしいので、刺殺にするという演出もあるらしいという話は私も聞いたことがあったのだが、劇評や先行研究で読むだけで実際に見たことがなかった…ものの、今回初めて生で見ることができて、大変よかった。これはあまりない演出なので、見る価値がある。

Shakespeare Journalに、18世紀エディンバラの文芸ファンに関する論文がのりました

 日本シェイクスピア協会が刊行している和文誌『Shakespeare Journal』に投稿した論文がのりました。書誌情報は以下のとおりです。

 

北村紗衣「我々にもオシァン・ジュビリー祭を!ーシェイクスピア・ジュビリー祭と、とあるスコットランドのファンの夢」『Shakespeare Journal』6 (2020):11-21。

 

 18世紀のエディンバラに住んでいた文芸オタクと思われるオスカーさんが、雑誌に「シェイクスピア祭やったんならスコットランドでオシァン祭を!」という内容の投書をしたことについて、この頃のファンカルチャーについて論じた論文です。このオスカーさん、やたらと町おこしのファン祭りをやりたがる一方、イングランドへの対抗意識があったり、「オーガナイザーは経験者に頼むってことで」みたいに他人まかせだったり、現代人と行動がかなり似ているところが面白いです。

 

 

吉田育英会会報誌『環』にインタビュー記事がのりました

 吉田育英会会報誌『環』3号(2020年3月)、pp. 20-21に私のインタビュー記事がのりました。奨学金を受給して卒業した人に取材する企画です。私はここの奨学金をもらってロンドンに留学したので、この支援がなければ学位もないし、今の仕事にもつけていなかっただろうと思います。だいたいは学問や仕事の話ですが、テディベアの話とかものっています。

 

水!手洗い!~『マクベスの悲劇』

 俳優座で『マクベスの悲劇』を見てきた。

haiyuza.net

 新しい台本を使い、あまりカットなしでやるというものである。完全ノーカットというわけではなく(付け足しと考えられているヘカテの場面などはない)、また最初にマクベス夫妻の強い愛情を示すべく、台本にはないマクベス夫妻の結婚式の場面が付け加えられているのだが、かなりカットが少ない。途中でイングランド王は手を触れることで瘰癧の患者を治せる奇跡の力を持っているとかいう台詞があり、私はこの部分をカットしないでやっている『マクベス』はあんまり見たことがないのだが(皆無ではないと思う)、このプロダクションではそこもやっていた。

 

 特徴は舞台の真ん中にある水である。四角く切り抜いたところに水が入っており、最初はふたがしてあってふつうの床のように見えるのだが、どんどん水の開口部が大きくなって、演出上水が重要になってくる。コロナウイルス流行ということもあり、水はかなり塩素臭のするプールっぽい水なのだが、これがマクベス夫妻の血にまみれた手の洗浄というこの芝居の有名な箇所にからめて、要所要所で使用されている。手洗いの奨励ということでは大変時事にそった演出だ。水による清めというようなことが演出の視覚的な中心にあるのだが、ちょっとこれを強調しすぎてくどいかな…というところもあったものの、だいたいはうまくいっていたように思う。強調しすぎと思ったのはマクダフ(小田伸泰)がマルカム王子(辻井亮人)を押さえつけて水をぶっかけながらスコットランドの惨状を嘆くところで、あそこでマルカム王子があまり抵抗しないのは、いくら水による清めが大事な演出とはいえ人間の動作としてちょっと不自然だろうと思った。

ハリウッドの中年女性差別~『サンセット大通り』

 ミュージカル『サンセット大通り』を見てきた。ビリー・ワイルダーの有名映画をアンドルー・ロイド=ウェバーがミュージカル化したものである。私が見た回はノーマが安蘭けい、ジョーが松下優也だった。

horipro-stage.jp

 話はほぼ映画と同じで、売れない脚本家のジョーがサイレント映画の大スターで今ではサンセット大通りで隠遁生活を送っているノーマに出会い、ノーマのカムバックのために脚本を手伝う仕事をさせられる…という物語である。ハリウッドの内幕を容赦なく描いた作品だ。

 さすがにアンドルー・ロイド=ウェバーなので音楽はツボをおさえたもので、ちょっとオペラ風にふつうなら台詞で言いそうなところも歌にしたり、わりと短く盛り上げて終わる歌があると思ったらじっくりめに歌い上げるところもあったり、メリハリがきいている。あと、ノーマのお屋敷のセットが大変に豪華で、映画でも大事な役割を果たす階段が真ん中に設置されていてかなり存在感がある。衣装なども綺麗だし、非常にお金のかかったプロダクションだと思われる。

 ただ、安蘭けい演じるノーマを見てちょっと思ったのだが、映画のグロリア・スワンソンはわりと強烈にグロテスクでナルシストな感じだった一方、安蘭けいは現役の舞台女優感が強い。というか、まず安蘭ノーマが初めて階段にあらわれるところで客席から拍手が起きるのである。まあその気持ちはわかるのだが(たしかに魅力的だ)、こういう内容のお芝居でここで拍手をするのはムードがなくなるのでは…という気がした。ノーマはひとりで世間から忘れられて暮らしている設定なので、まあ脳内では常に拍手が鳴り響いているのかもしれないが、実際はなんか静まりかえっているのに不自然に大げさに出てくる、みたいな登場場面なのではないかと思うのである。そこで拍手が起こると、安蘭ではなくノーマの現役スター感が高まってしまうので、ちょっと雰囲気としては入り込みづらい。

 さらに昔に比べると、ミソジニー感なしにグロテスクな中年女を容赦なく描くというのは難しくなってきていると思うので、この舞台を見ていると、まあ演技スタイルはトーキー向きじゃなかったのだろうが今でもゴージャスなのに、すっかり役がなくなってしまったノーマが、ハリウッドの中年女性差別の象徴に思えてかわいそうに見えてくるところもちょっとある。あと、これにはジョーの友達で駆け出し脚本家であるベティのキャラクター造形がちょっとあんまりうまくいってないところがあるのかもしれない…というのも、このプロダクションのベティ(平野綾)はやたら明るくてハイテンションな性格だ。ベティはノーマと対極にあるようなキャラとして描いたほうがいいと思うのだが、なんかふたりともけっこうテンション高い人なので、対比があんまりうまくいっておらず、いや別にノーマはベティに比べてもけっこうゴージャスなのでは…と思ってしまう。小娘感を出したかったのだろうが、小娘感を犠牲にしてでも、ノーマとはっきり対比されるかなり落ち着きのある性格に演出したほうがいいと思う。

 あと、全体的に照明がけっこう良かった。セットの特徴に合わせてあまり悪目立ちしない照明なのだが、最後、正気を失ってしまったノーマが舞台の中央に出てくるところで、スポットがぐわーっと四方八方からノーマに集まる。ここはとてもわざとらしく芝居がかっているのだが、これがノーマのキャラによくあっていて、終わり方として効果的だった。

完璧な客席と最高のラブシーン~『ジュディ 虹の彼方に』(ネタバレあり)

 ルパート・グールド監督、ルネ・ゼルウィガー主演『ジュディ 虹の彼方に』を見てきた。

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 ジュディ・ガーランドの伝記映画である。ほとんどは人生の終盤、酒や薬のトラブルをかかえ、子供たちと離れてロンドンで公演をしている時期のジュディを描いているが、一方で若い頃のフラッシュバック映像もあり、そこでジュディがひたすらスタジオから働かされていた記憶が描かれる。歌は吹き替えなしでゼルウィガーが歌っている。

 

 とにかくジュディが不幸で、さらにその不幸はルイス・B・メイヤーが子役時代のジュディにパワハラしまくっていたからだ、ということが明確に描かれている。休む間もなく働かされ、体重管理と称してろくにごはんも食べさせてもらえず、寝ることも遊ぶこともできず、パフォーマンスを上げるために薬を投与されるようになる。ジュディは子供時代を奪われたと思っており、過労のせいで体はボロボロだ。おそらくジュディの回想に基づいていると思われるので多少の誇張はあるのではという気がするのだが、それでも若い頃のジュディがとんでもないペースで映画に出させられていたのは本当なので、子役に対する人権侵害はある程度史実に基づいているのだろうと思う。この映画に出てくるメイヤーはまったく最低のボスで、まだ子供で大人の判断力がないジュディのことを本気で気にかけているようなふりをして、恩を着せて相手の責任感に訴えてどんどん働かせるという極悪なことをしている。最近 #MeTooが出てきてハリウッドのハラスメントが明らかになったことを考えると、ハラスメントのタイプは違うがけっこうタイムリーな映画だと思う。

 

 この映画において一番重要なのは、ジュディが求めているのはファンからの愛だということだ。ボスはジュディのことなんかまったく何も思っていなかったし、次々にジュディに寄ってくる男たちも本当はジュディのことを心から愛していない。そこでジュディが求めているのはステージに立った時にファンがくれる愛だ。見ず知らずの人たちからの崇拝を求めているジュディは倒錯しているのかもしれないが、しかしながら身近な人たちに裏切られてきた一方、自分の芸術的才能には誇りを持っているジュディにとっては、客席が芸術家としての自分を評価してくれた時が一番幸せで、知らない人々からの愛を求めるのが一番合理的で自分に正直な選択肢なのである。

 そして最後、ジュディが「虹の彼方に」を歌おうとして涙で歌えなくなった時に、客席にいた熱烈なファンであるゲイのカップルがジュディのかわりに歌うことで完璧な愛を返してくれる。ここは理想的なファンダム、芸術家の才能と精神を常にサポートし、愛する完璧な客席が立ち上がる場面である。ジュディのために客席が歌ってくれる場面は、最近見た映画の中では最高のラブシーンだ。

 ファンダムの熱狂を描いているという点でこの映画は『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』と同系列のテーマを扱っていると言えるのかもしれないが、『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』がファン視点でファンの愛を描いているのに対して、『ジュディ 虹の彼方に』はパフォーマーの視点でファンの愛を描いている。最近、とある映画のせいでファンダムに対する信頼を失いかけていたのだが、この映画は見ていて「自分、ファンで良かったな」と思える作品だったと思う。その映画っていうのは( 以下、精神的ショックのため自主検閲)