日本英文学会第92回大会(ヴァーチャル開催)で発表しています

 日本英文学会第92回大会で発表をしています。今年は初めてのヴァーチャル開催で、7/6から7/15までウェブ上で資料を見てコメントする形の発表になります。私はシンポジアム「 The isle is full of noises——近世イングランド文学とユートピア的「島」幻想」を組織しており、「フェイクニュースとリアリティショー~ヘンリー・ネヴィルのThe Isle of Pinesを読む」という発表をしています(最初は共和主義思想の話をしていたのにいつのまにか『テラスハウス』や『サバイバー』の話になる謎の発表です)。他にも柴田和宏さん、鈴木雅恵さん、松田幸子さんが発表しておられますので、是非ご覧下さい+コメントも是非くださいませ。

『文藝』に『持続可能な魂の利用』の書評を書きました

 『文藝』2020年秋季号に松田青子『持続可能な魂の利用』(中央公論社、2020)の書評を書きました。書誌情報は以下のとおりです。

北村紗衣「[書評]松田青子『持続可能な魂の利用』ーファンフィクションの成熟」『文藝』2020年秋季号、492。

文藝 2020年秋季号

文藝 2020年秋季号

  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 雑誌
 

 

 

持続可能な魂の利用

持続可能な魂の利用

 

 

衣装の良し悪し~ドレスデン・ゼンパー・オーパー『薔薇の騎士』(配信)

 ドレスデン・ゼンパー・オーパーの配信で『薔薇の騎士』を見た。ウヴェ・エリック・ラウフェンベルク演出、ファビオ・ルイージ指揮によるもので、2000年の上演である。ドイツ語で英語字幕がつく。

www.semperoper.de

 衣装やセットはわりと大がかりかつ華やかなもので、現代風なところもあるが、上流階級の伝統を残している雰囲気のものになっている。全体的に衣装はかなり凝ったものだ。貴族の世界である第1幕はわりと伝統的な雰囲気なのだが、新興のファニナル家が舞台の第2幕のほうがモダンだ。第2幕のオクタヴィアン(アンケ・フォンドゥンク )が求婚のお遣いでファニナル家に行く場面ではマスコミが来ており、オクタヴィアンとゾフィ(森麻季)の広報写真を撮るなどという演出もある。ここで意気投合してしまった2人がまるっきりカップルのように見えるので、「もうちょっと離れて」などという撮影ポーズの指示が出るところがおかしい。

 オクタヴィアンが持ってくる銀の薔薇は金属ではなくガラス工芸品になっており、ゾフィは水色のチューブトップの上に花柄レースのノースリーブをかぶせたモダンで可愛いドレスを着ていて、繊細な花を思わせるドレスと小道具の薔薇がとてもマッチしている。この場面ではオクタヴィアンの騎士の礼服も水色系で、衣装がゾフィとの相性の良さを暗示している。一方、オックス(クルト・リドル)は黒いスーツを着ている威圧的な中年男で(老人ではないのだが自分の力を過信してるタイプ)、軽妙で淡い色が似合うゾフィとは明らかに合わない。

 ただ、第3幕の居酒屋でゾフィが着ている衣装はちょっとどうなのかなと思った。現代女性らしいグレーの地味な衣装を着ているのだが、なんだかパッとしなくて女学生みたいに見える。これが貴族的で堂々としたマルシャリン(アンネ・シュヴァネヴィルムス)が着ているものすごくオシャレな白黒の女性用スーツに比べるとかなり見劣りする。この場面ではマルシャリンが歌でも演技でも成熟した大人の女性の魅力を発揮しまくっており、衣装の色やスタイルもオクタヴィアンの衣類とマッチするようなデザインになっているので、オクタヴィアンがマルシャリンと別れてゾフィと一緒になるという展開の説得力が減ってしまうように思った。

突然のスティーヴ・ハーリー&コックニー・レベル~『お名前はアドルフ?』(少しネタバレあり)

 ゼーンケ・ヴォルトマン監督『お名前はアドルフ?』を見てきた。

www.youtube.com

 タイトルから推測できそうな話だが、ドイツのボンを舞台に、家族の集まりで弟トーマス(フロリアン・ダーヴィト・フィッツ)が生まれてくる息子にアドルフという名前をつけると言ったことから始まる家族の大論争を描いた作品である。アドルフはヒトラーの名前なのドイツではとても不人気で、とくにトーマスの義理の兄シュテファン(クリストフ・マリア・ヘルプスト)は猛烈に反対する。これだけで1本の映画になるのか…と思いきや、途中から家族のケンカがエスカレートして、あまり子供の名前に関係ない、いろんな家庭内の問題や不満がブチまけられる。

 

 いくつかの回想場面やエピローグを除いてほぼひとつのセットでできる展開といい、家族間の会話で成り立っていて笑うところがたくさんあるところといい、とても舞台劇っぽい。原作は舞台劇で、監督も舞台出身だそうで、映画じたいも非常に演劇的な雰囲気を残した作りになっている。歴史認識をめぐる問題から家族間の反目が露わになるとかいうのも、わりと家庭劇が得意とするような主題だと思う。ネタバレになるのであまり詳しくは言わないが、そもそも事の発端はトーマスとシュテファンの互いに対するライバル心で、一方でトーマスの姉でシュテファンの妻であるエリザベト(カロリーネ・ピータース)は夫に大きな不満を抱えており、さらに温厚そうなレネ(ユストゥス・フォン・ドーナニー)が一番大きな秘密を持っていて…という流れになる。

 この映画は基本的には歴史認識から始まって家庭の問題に至るものなのだが、セクシュアリティについてもなかなか諷刺的な展開がある。レネのことをみんなゲイだと思っていたのだが、実は…という終盤の流れは、映画でよくある(そしておそらくドイツだと日常生活でもあるのであろう)ステレオタイプなゲイ受容をけっこう痛烈に皮肉ったものだ。レネは非常に態度がソフトで、衣類の趣味がちょっとキャンピーなので皆からゲイだと思われているのだが、そもそもこの一家はけっこうそういうことに対してはリベラルなのでレネのことを当然ゲイなのだと思っていたら実は違った、ということになる。ソフトでオシャレな男性がいたらゲイだと思ってしまうという男らしさに関する偏見を突いたプロットだ。

 なお、最後にスティーヴ・ハーリー&コックニー・レベルの'Make Me Smile (Come Up and See Me)'が主題歌みたいな感じで流れるのはちょっとビックリした。この歌は70年代イギリスのグラムロックの名曲と言われているものだが、メロディはすごくポップなのに歌詞がけっこう皮肉である。映画の後味にはよく合っているかもしれない。

正攻法で優しさと暴力を描く~ストラトフォード・フェスティヴァル『ハムレット』(配信)

 ストラトフォード・フェスティヴァルの『ハムレット』を配信で見た。2015年の上演で、アントニ・チモリーノ演出である。

 

 衣装は19世紀の末から20世紀初頭くらいだと思うのだが、場所も時代も意図的に少しぼかされているような印象だ。全体的に暗い色調で、眩しい照明なども使っておらず、これはとても憂鬱そうなハムレット(ジョナサン・ゴード)の醸し出す雰囲気によくあっている。全体としてはあまり奇をてらわない丁寧な演出でしっかりまとめられている。

 このプロダクションはハムレットのキャラクター作りが大変良い。ジョナサン・ゴードのハムレットは父親の死のせいで本当にショックを受けている心の優しい王子なのだが、一方で機嫌が悪いと暴発したり、調子がよい時はユーモアを発揮したり、複雑性のあるキャラクターになっている。面白いのはクローディアスのお祈りのところでハムレットが剣ではなく長い銃を持って登場するところで、クローディアスの頭の後ろに立って狙って撃つかどうか迷う場面はかなり緊張感があり、また銃身のぶんだけ距離をとらないといけないのでわりと独白をするハムレットの表情がクローディアスと離れたところで見えやすく、これはけっこう視覚的に良い演出なのではないかと思った。全体的にはエネルギーよりも優しさや哲学的な思考が中心のハムレットだと思うのだが、亡霊に出会って取り乱す場面や最後のフェンシングの場面はかなり激しく、メリハリをつけて盛り上げている。

 周りを固めるキャストもとてもよく、とくにポローニアス一家の描き方が繊細だ。この上演のポローニアス(トム・ルーニー)はかなり優しいが押しつけがましいところもある父親である。序盤でレアティーズが出発した後、ポローニアスがオフィーリア(エイドリアン・グールド)のヴァイオリンの伴奏で歌を歌うところがあるのだが、ここでは例のオフィーリアが狂気に陥った時に歌うヴァレンタインの歌をポローニアス自身がけっこう上手に歌っている。譜面台にはヴェルディの『椿姫』の楽譜がのっかっており、この父娘は2人とも音楽好きで、さらに恋に破れた悲しい女の物語が好きらしいということが示されている。このプロダクションでは、ポローニアスは昔芝居をやっていたことを覚えているのか、わりと芸術的なこだわりを持っている人物だ。最初にヴァレンタインの歌が出てくるせいで、狂気に陥ったオフィーリアがヴァレンタインの歌を歌うところでは父親をしのんでいるということがよくわかるようになっている。一方でポローニアスには娘を心配するあまり過保護なところがあり、この過保護で人の行動に口を出したがるうるさいところは兄貴のレアティーズ(マイク・シャラ)にも完全に受け継がれていて、オフィーリアに注意をする時のこの2人の様子は結構似ている一方、レアティーズのほうが若いせいでちょっと大げさなところがあるように見える。この3人は非常にまとまりと絆のある家族に見えるよう提示されているので、家族を失ってショックを受けるオフィーリアやレアティーズの様子にとても説得力がある。とくにオフィーリアの埋葬のところで、レアティーズが出発の時に妹にもらったスカーフを墓場にこっそりおさめるところは家族の情愛がよく出ている演出だ。

 ただ、全体的に画面が暗いこともあり、プロダクションの魅力を引き出す撮り方になっているかというとちょっとそうとも思えないところがあった。暗い上にスモークなどが使われているところもあり、家の画面で見るとやや動きがとらえにくいところがある。とくにハムレットと亡霊が会うところはかなりホラーっぽい演出がされているようなのだが、かなり暗いところで表情を撮るためカメラがすごく寄るので全体の雰囲気がとらえにくい。さらにここではどうもハムレットが何か舞台上の構造物に登っているようなのだが、たぶんライヴだともうちょっと見えるのではないかと思うのだが、映像だとどういう形のものに登っているのかよくわからない。

動くレンブラント~ウィーン国立歌劇場『ファルスタッフ』(配信)

 ウィーン国立歌劇場の配信で『ファルスタッフ』を見た。2016年12月12日の上演を記録したものである。演出家はデイヴィド・マクヴィカー、指揮者はズービン・メータである。

www.staatsoperlive.com

 衣装やセットにすごく凝ったプロダクションで、全体に絵画のような舞台作りを目指しているようだ。とくに前半はまるでレンブラントの絵が動いているような印象を受ける。フォルスタッフ(アンブロジオ・マエストリ)が隠れた洗濯かごが窓から放り投げられる場面などはそのまま集団肖像画みたいだ。一方、終盤の森の場面は大きな月が丸く出た夜でちょっと雰囲気が変わっており、17世紀の絵画のようでもあり、木に時計がかかっているあたりなどはダリの「記憶の固執」のようなシュルレアリスム絵画のようでもあり、気味悪い仮装の人々がたくさん出てくるところはフュースリっぽくもあり、とにかくいろんな工夫で絵のように見せようとしている。この場面では例の洗濯かごが再登場するあたりもおかしい。

 音楽もしっかりしているし、笑うところもたくさんあって楽しいプロダクションである。フォルスタッフや陽気な女房たちのみならず、若い恋人たちであるフェントン(パオロ・ファナレ)とナンネッタ(ヒラ・ファヒマ)もなかなか良く、2人ともとてもロマンティックにアリアを歌い上げている。

マジックの芝居~フォルジャー・シェイクスピア図書館『マクベス』(配信)

 フォルジャー・シェイクスピア図書館の『マクベス』を配信で見た。アーロン・ポズナーと、マジシャンのデュオであるペン&テラーのテラーが演出したプロダクションである。2008年の上演で、かなり画質が悪く、ちょっとわかりづらいところがあるのが残念だ。

www.folger.edu

 私はフォルジャー劇場で芝居を見たことないのだが、けっこう客席と舞台が近い劇場であるように見えた。マジシャンが演出に入っているというだけあって見た目が凝っている。とくにマクベス(イアン・メリル・ピークス)が幻の剣をつかもうとするところはマクベスの後ろにある鏡にだけ剣が映るという仕掛けで、たぶん単純な特殊効果なのだと思うのだが、効果的な台詞回しや全体のホラーっぽい雰囲気と重なって驚くほど効果的である。

 血なまぐさいプロダクションなのだが、ショッキングな要素の使い方は効果的だ。マクベス夫人(ケイト・イーストウッド・ノリス)の夢遊病の場面では本当に手から手が出てきて、マクベス夫人の白い寝間着がかなり血まみれになる。この大量の血が出てくる演出は、悪夢に悩むマクベス夫人にとって自分の手がどう見えているかをわざとお客さんにも見せるというもので、あまり見かけない演出だがこういうホラー風の演出でやるならばとても良いと思った。

  全体的に演出はスピード感重視である。バンクォー殺害とマクベスマクベス夫人の会話がスプリットスクリーンみたいに同じ舞台の上で同時進行するというこれまたスリラー映画みたいな演出がある。マクベス夫人はかなり強引で信用できなさそうな女性だという印象を与えるのだが、マクベスはそんな妻を心から愛していてそのペースにのせられてしまう。