意外とバレエ映画~『クーリエ 最高機密の運び屋』(ネタバレあり)

 『クーリエ 最高機密の運び屋』を見た。

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 1960年代にイギリスのスパイとして活動していた実在の人物をもとに作られたスパイスリラーである。根っからの商売人でこれまで全く諜報などにかかわったことがなかったグレヴィル(ベネディクト・カンバーバッチ)は、その怪しまれなそうな素性からCIAやMI6から声をかけられ、技術交流と商売を隠れ蓑にソ連の重要人物であるアレックスことオレグ・ペンコフスキー(メラーブ・ニニッゼ)と情報をやりとりする仕事をするようになる。妻のシーラ(ジェシー・バックリー)にも秘密で任務をこなすうちにオレグが危機に陥り、グレヴィルも疑われることになるが…

 キューバ危機回避のために動いた人々を史実に基づいて(たぶん盛ってはあると思うが)スリリングに描いた作品である。スパイものとしては地味だが、そのぶん現実感があるし、出てくる人々の心情を丁寧に描いていて飽きさせない。調子のいい商売人でおそらく浮気性でもあったグレヴィルが、任務の過程でどんどん真面目になり、一方でストレスのせいで態度が荒っぽくなって妻と仲違いするなどという描写も細やかである。

 この映画の中ではバレエがけっこう重要な役割を果たしている。オレグが初めてソ連でグレヴィルに会った際、ソ連の意外な面を見せてあげるというオレグがグレヴィルをボリショイバレエの『シンデレラ』に連れて行く。グレヴィルは初めてバレエを見るわけだが、この『シンデレラ』というのはぱっとしない人物が急に重要な人物になるということで、おそらくただの商人からスパイになったグレヴィルにとっては状況にピッタリあう作品だっただろう。そして終盤、状況が展開する直前にまた2人は『白鳥の湖』を見てすごく感動するのだが、これは背景も国も違う男たちが同じバレエを見て感動して絆を深め合う様子を描いており、芸術が冷戦の垣根を越え得るものだったこと、楽しい経験を共有して共通点を見つけることで2人の間に友情が芽生えたことを示唆している一方、演目の展開がその後の映画の流れを暗示している。『白鳥の湖』のヒロインであるオデットは人間と美しい野生の白鳥という二面性を有しており、呪いから解放されて人間に戻りたいと思っているのだが、それは陰謀でくじかれてしまう。グレヴィルもただの商人とスパイという二面性を持っていて、おそらく商人がオデットの人間の面、スパイは美しい野生の白鳥という側面に相当する。スパイも白鳥も魅力的な存在だが、オデットもグレヴィルも本来はただの人間だ。グレヴィルはオデットよろしく、最後の任務を終えて人間に戻りたかったのだが、その望みが潰えた。グレヴィルは白鳥のままソ連に留まることになってしまい、彼を人間に戻すためにさまざまな人々が奔走することになる。

ラパチーニの息子~『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(ネタバレあり)

 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を見た。

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 ダニエル・クレイグが演じる007の最終作である。ボンドが引退してマドレーヌ(レア・セドゥ)とマテーラにハネムーン…と思ったが結局あんまりうまくいかず、ボンドはジャマイカでひとり暮らしをすることになる。ところがそこにボンドにとっては数少ない信頼できる友達であるアメリカのエージェント、フェリックス(ジェフリー・ライト)がやってきて、ボンドに仕事を頼んでくる。あまり気乗りしないボンドだが、いろいろあって結局は任務に復帰することに…

 

 私はダニエル・クレイグがボンドになる以前はほとんど007をちゃんと見たことがなく(ごく有名な数本しか見てないと思う)、クレイグになってからこの役者はイイと思って見始めたのだが、こういう孤独で疲れた人間としてのボンドの最後の大舞台としては非常にきちんとまとめあげている作品である。スパイ映画っぽい荒唐無稽な設定と、あまりにも人間らしく、自分の欠点に向き合い続けてきた憂鬱なヒーローのキャラクターがかなり齟齬をきたしてしまっているというところはあると思うのだが、力技でボンドを花道から退場させた感じだ。また、脇を彩るボンドの仲間たちのキャラクターがとにかく魅力的で、心を許せる友達であるフェリックスの前ではボンドが驚くほどリラックスした表情を見せる。また、口では文句を言いながらもボンドをとても心配しているQ(ベン・ウィショー)が、ボーイフレンドが訪ねて来るというのに結局はボンドたちを助けてくれるなど、あいかわらずカワイイ。背中の美しさに自信がないと着られない超オシャレドレスで暴れ回るパロマ(アナ・デ・アルマス)や、ボンドの後任である若くて優秀な新007ことノーミ(ラシャーナ・リンチ)も魅力的だ。

 プロットはけっこうトランプ政権を意識したものになっていて、たぶんできれば大統領が変わる前に公開したかったのではないかと思う。別にトランプの名前が出てくるとかではないのだが、全体的にアメリカの情報機関がトランプ政権の無能のせいでちゃんと機能しなくなっているらしいということがほのめかされている。フェリックスが連れていくるアッシュ(ビリー・マグヌッセン)というアメリカ人のエージェントがいるのだが、こいつがとにかく使えない上、悪巧みだけは頑張るという、まったく実のない男である。ごますりとか調子のいいハッタリは得意そうな白人男性で、いかにもトランプ政権下で出世しそうな感じだ。このせいで明らかに有能であるフェリックスがとんでもないめにばかりあい、最後には優秀なエージェントが失われてしまうということになるわけで、このあたりはけっこう諷刺的だと思う。イギリスはそこまで組織が劣化していないので(それでも政治家の能力という点では全く期待はできない状態なのだが)、アメリカのせいでいろいろ困っている…みたいなこともそれとなくほのめかされている。

 ただ、マドレーヌが序盤、列車に乗るところで白いドレスのお腹を押さえていて「ん…?まさか…?」と思ったら予想通りに終盤で子どもが生まれており、ずいぶんと細かい伏線を張るものだと思った。マドレーヌがいきなり母になり、そのせいでボンドがどんどん父親の自覚を持ち始めてしまうあたりはちょっと安易である。しかしながら、始終孤独なダニエル・クレイグのボンドでは、包容力ある母というのが究極のファム・ファタルなんだろうなと思う。『スカイフォール』で亡くなったMはエージェントみんなの母であり、ボンドと断ち切れない絆で結ばれた究極のボンドガールであった。そしてここで新たな母であるマドレーヌがファム・ファタルになるわけである。レア・セドゥは昔のフランスの女優みたいな妖艶さを持っていて、別に顔がすごく可愛いとかいうわけではないのだが、ちょっと不機嫌になったり、つらそうにしているだけで、惚れた相手がどんどん心配でたまらなくなるような人を惹きつける存在感を持っている(昔のジャンヌ・モローみたいな珍しい魅力を持っている女優だと思う)。こういうレア・セドゥだからなんとか優しい母にしてファム・ファタルみたいな役でもできるのであって、他の女優だったらただの薄っぺらなヤバい人みたいに見えるのではないかという気がした。 

 本作で一番弱いポイントなのは悪役のサフィンラミ・マレック)だ。北方四島あたりにあるミョーな日本趣味の島に住んで毒物とか細菌の研究をしており、たぶん北海道を危険にさらしていると思うので(ただでさえエキノコックスで大変なのに!)、道産子としてはこれだけで非常に心証が悪い。まあ、北海道を危険にさらしているとしても本人がカリスマ的魅力を持った悪役であるならば映画としては楽しめるのだが、このサフィン、全ての背景をあまりよく練られていないセリフで説明してしまうので、全然面白くなく、北海道は危険にさらされ損である。とくに終盤でサフィンとボンドが話すところなどはもうちょっとセリフをちゃんと考えたほうがいいのではないかと思った。変な日本趣味についてもとくに説明はないので、ただのオリエンタリズムみたいに見える。サフィンの設定はホーソーンの「ラパチーニの娘」という作品にちょっと似ていて(あまりネタバレしたくないのだが、有毒美女の話である)、ああいう感じのことをしたかったのでは…と思うのだが、正直、「ラパチーニの娘」のほうがずっとぶっ飛んでいて面白い。どうせならサフィンの設定をもっとあからさまにラパチーニの娘に寄せたほうがスパイアクションっぽくなったのではないかと思う。

 

 

最後に突然…PARCO劇場『ジュリアス・シーザー』(ネタバレ)

 PARCO劇場で森新太郎演出『ジュリアス・シーザー』を見た。オールフィメールの上演である。

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 2時間15分休憩なしで、とくに後半をかなり刈り込んでいる。キャシアス(松本紀保)がお亡くなりになるあたりなどはけっこう飛ばしている。あと、私がわりと好きな、前半でポーシャ(藤野涼子)が議場に出かけたブルータス(吉田羊)を心配するところはしょっちゅうカットされるのだが、ここもやはりカットである。セットは金属の板を打ち付けたみたいな感じで、別に悪くはないのだが、ここ2年間配信舞台ばかり見ている私は「あ、これ、配信の映像で見るとやたらどこもピカピカしててすごく見づらくなるやつだ」と余計なことを思ってしまった(去年、これ系のセットでとくに工夫なく漫然とアーカイヴ用に撮影してしまったため、映像がえらいことになっている配信を観たことがあった)。

 オールフィメールで、男役もトーガだかスカートだか一見したところよくわからないような衣装を着ており、とくに暗殺者たちは全員、赤系の衣類で統一している。ただ、それ以上にあんまりオールフィメールっぽさを意識させるところはなく、全体的には非常に正攻法というか、政治劇と人間ドラマをきちんと見せる演出である。大変シリアスな展開で、面白可笑しいところや皮肉に満ちたところもそんなにない。ブルータスはあんまり真面目すぎて不愉快みたいな感じはなく(そういう役作りになることもけっこうあるが)、比較的当たりが柔らかくて大変高潔で市民に人気のありそうな感じだし、シーザー(シルビア・グラブ)はいかにも押し出しが立派でリーダーに生まれついてるみたいな政治家だ。アントニー松井玲奈)は若くて一見あんまり難しいことを考えてなさそうである一方、実はいろいろ鋭く立ち回ることができる人物である。ただ、前半からするとやっぱりシーザーとブルータスがこのローマでは二大巨頭というか、市民の支持があるカリスマ的な政治家なんだろうなーと思った。アントニーはポッと出の意外な伏兵で、若いポピュリスト政治家が仕掛けたいちかばちかの大芝居により、ブルータスは手を噛まれたわけである。

 そういうわけで終盤まではきちんとしたわりとオーソドックスでわかりやすい演出であるように思って見ていたのだが、最後のほうでちょっとびっくりするようなところがあった。ネタバレになるが、このプロダクションでは全体的にブルータスがけっこうお小姓であるルーシアス(高丸えみり、序盤の占い師も演じている)に優しい。そのぶん、最後にルーシアスに自殺補助をブルータスが強いるところがまるで親による子の虐待みたいに見えて奇妙に残虐である。とくにブルータスがルーシアスの持つ剣に倒れるところでは、舞台正面を向いてルーシアスを我が子のように抱きしめながら絶命しており、ここだけえらくブルータスが母性的だ。それまであんまりオールフィメールっぽさが出ていなかったのに、突然ブルータスが母親になったような印象を与える。これは他のトーンとあまり合っていないような気がした。

 また、気になったのは福田訳を使用しているところだ。福田訳は韻文と散文の台詞の区別がわかりにくくて授業で使いづらいのであんまり教育では使用されていないと思うのだが、このプロダクションは福田訳を使用している。これがかなり台詞が固くて難しく、とくに序盤のまだノってないところでは若干、もたついているような印象を受けた。とくにこのプロダクションではキャシアスがけっこうくだけた態度の人で、真面目で知的なブルータスはともかく、正直、こういうキャシアスならこんなふうにしゃべらないのではという気がした。松岡訳とかにしたほうがよかったのではないだろうか…

台本は良いが、歌がちょっと…『October Skyー遠い空の向こうに』

 ミュージカル『October Skyー遠い空の向こうに』を見てきた。おおもとの原作は、のちにNASAで働くようになったホーマー・ヒッカム・ジュニアの自伝的小説である。これが1999年に映画化されており、この映画を舞台化したのが今回、日本で上演されているミュージカルである。

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 1957年のスプートニクショックをきっかけに、ウェストヴァージニア州の炭鉱町であるコールウッドで暮らす高校生のホーマー(甲斐翔真)はアマチュアロケット製作に興味を持つようになる。友達のロイ(阿部顕嵐)とオデル(井澤巧麻)、いじめられっ子だが科学に強いクエンティン(福崎那由他)の4人はロケットを飛ばすことに熱中し、だんだん上達するが、ホーマーの父で炭鉱の安全面を監督しているジョン(栗原英雄)はこれを全くよく思っていない。自分の仕事を継がせたいジョンとホーマーの間には大きなわだかまりができてしまうが…

 もともとの映画は大変よくできた青春もので、『リトル・ダンサー』+『ドリーム』みたいな感じの作品である。経済的にあまりうまくいっていない鉱山の町を舞台に、ジェンダー規範(コールウッドではガリ勉は男らしくないとされている)や階級規範に挑戦しようとする少年たちを爽やかに描いている一方、科学の楽しさを伝える物語でもある。ミュージカル版も基本的には映画に沿っており、不景気に苦しむアメリカの田舎町をシビアに描きつつ、後味の良いお話に仕立て上げている。

 ミュージカルだというところ以外は映画と舞台の違いはあまり無いと思うのだが、ミュージカル化されたせいでジョンが問題ある父親だということが舞台でより生々しく描かれていると思った。歌でジョンとホーマー、またジョンの妻であるエルシー(朴璐美)の感情のやりとりが盛り上げられており、たぶんそのせいでよりジョンが非常に抑圧的で気難しい父親に見える。ジョンはブルーカラー色の強い炭鉱町で生まれ育ったのだが、現在は監督なので中間管理職である。坑夫たちよりは責任ある立場だが、会社からすると下っ端で、調整と安全管理に気を遣わざるを得ない苦しい立場にある。こういう中途半端な立場のせいで余計に気負ってしまい、町の人々のジェンダー規範や階級規範をより強く内面化しているフシがある。ジョンの気難しさには理解できるところがあるとはいえ、ジョンのホーマーに対する態度はかなりひどいもので、舞台で見ると余計にきついところがある。

 台本や舞台のデザインはいいのだが、開幕したばかりのせいか、歌のほうは稽古不足なのではという気がした。ベテランはともかく、若手はわりと不安定だ。とくに序盤はけっこう歌が固かったと思う。

 

 

『白水社の本棚』にブリュノ・ガラン『アーカイヴズ』の書評を書きました

 『白水社の本棚』にブリュノ・ガラン『アーカイヴズ』の書評を書きました。書誌情報は以下のとおりです。

北村紗衣「汗牛充棟だより(3) 記録保存の重要性ーブリュノ・ガラン『アーカイヴズ』」『白水社の本棚』198、2021年秋号、10-11。

 

クラシック音楽メディアFreudeに新刊のレビューが載りました

 かげはら史帆さんが音楽サイトFreudeで新刊『批評の教室ーチョウのように読み、ハチのように書く』をレビューしてくださいました!クラシック音楽のメディアでとりあげていただけるとは全く思っていなかったので、ビックリです。

freudemedia.com

最後をいじらないほうが良かったのでは…『オセローと言う男』

 松本大作・演出『オセローと言う男』を配信で見た。内容はたいてい『オセロー』なのだが、ちょっと変えてあるところがある。

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 何もないブラックボックスでコンパクトにまとめた上演である。映像はこの手の小劇場配信にしてはかなり質が良く、きちんとした見栄えの撮り方になっていて感心した。ただ、音の録り方についてはこれだけ映像がちゃんとしているわりには音量にむらがる。けっこう音に気を遣っているようで、キプロス島の雰囲気をだすため海の音などが入っており、とくにデズデモーナをオセローが殺そうとするところでは虫の声が流れたりする…のだが、効果音はともかく、とくに舞台の端で役者が話す場面などは妙に声が小さくなるところがある。まあ、小劇場だからこの程度の音のむらはしょうがないのかもしれないが…

 全体としては割合、正統派のオセローである。ただ、わりと全体的に緊張感ある感じで統一されていた男性陣の演出に比べると、終盤でデズデモーナとエミリアが男性の性質について話すところはちょっとわちゃわちゃしすぎているように思った。その後はおおむねきちんとした緊張感が持続するのだが、結末をいじっているのはあんまり良くない。男性同士の恨みや人種差別を強調すべく、さらなる殺人が続く暴力的な終わり方になっているのだが、イアーゴーの最後の意味深な台詞がカットされるなど、かなり余韻が削がれる。最後の付け足しは要らないのでは…と思った。