wezzyオンラインイベントが無事終わりました

 いつも連載をしているwezzyで行った新刊刊行記念オンラインイベント「北村紗衣×飯島弘規オンライントークイベント「『批評の教室』 ホームカミングデー~実践と裏話」」が無事終わりました。お越しくださった方々、どうもありがとうございます。『スパイダーマン:ホームカミング』を題材にみんなでネットワーキング図を作るなど、ちょっとゼミっぽいことをしました。

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ちょっとイマイチ全体のバランスが…『アンテベラム』(ネタバレあり)

 『アンテベラム』を見た。

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 非常に凝った作りの作品である。舞台は南北戦争前のルイジアナ州プランテーションで、中盤まではそこで奴隷にされている女性エデン(ジャネール・モネイ)の悲惨な生活を描いている。ところが途中でこの世界にはどうやら携帯電話があることがわかり、中盤から舞台は現代のアメリカらしいということがわかる。実はエデンは現代アメリカで人種差別と戦っている社会学者ヴェロニカで、白人至上主義カルトに誘拐され、この南北戦争前の生活を再現したコミュニティに監禁され、虐待されているらしいことがわかってくる。この外界から隔絶されたコミュニティでは奴隷制が敷かれ、拉致された黒人たちが白人たちにひどい虐待を受けて働かされている。エデンはなんとかして逃げようとするが…

 やりたいことはわかるのだが、全体的に人種差別や白人至上主義の恐ろしさを真面目に描きたいのか、レイプリベンジ映画みたいなジャンル映画にしたいのかがよくわからず、イマイチバランスの悪い作品である。ひとつひとつのモチーフはえらいリアルなのだが、それぞれの接続が中途半端にエクスプロイテーション映画っぽく、もっとどちらかに振り切った形にすべきなのではないかと思った。政治活動で目立っている女性が悪質な脅迫や嫌がらせの対象になるというのは極めてよくあることだし、白人至上主義カルトではないのだが女性を性的に虐待して烙印を押すカルトというのは実際にNXIVMという悪名高い組織が存在して最近裁判があったので、けっこう現実的な話題を扱っている。白人至上主義者による悪質な活動だとか、南北戦争前の南部にぼんやりアメリカ人が感じるノスタルジーの危険性とか、歴史を再現するのが娯楽として人気があるとか、このあたりもひとつひとつは非常に現代アメリカの世相を反映したものである。

 ところがそういうかなり現実の差別と暴力に即したシリアスな話を扱っている一方、展開がなんか70年代あたりのブラックスプロイテーション映画(パム・グリアが暴れ回るようなやつ)みたいで、ひどい虐待を生々しく見せて最後はそれに復讐する、という見せ物っぽい作りになっている。ものすごいトラウマを受け、今後も二次加害やら法的問題やらに対処せねばならないはずのヴェロニカが復讐をしてあっさり終わりになってしまう。とくに最後は外界から隔離されたはずのプランテーションを抜けたらすぐ外に歴史再現テーマパークがあり、ヴェロニカが南北戦争の戦場を駆け回るカッコいい絵を撮りたかったという以外にあんまり必然性のない展開があり、この緩さはエクスプロイテーション映画っぽいな…と思った(白人至上主義の恐怖は日常と隣り合わせです、ということを言いたいのだろうが、ちょっとあざとすぎる)。これなら最初からストレートに白人至上主義カルトの恐怖を描く、みたいな映画にしたほうが良いのでは…と思った。

 

音楽やダンスはいいが、台本は…シアタークリエ『グリース』

 シアタークリエで『グリース』を見てきた。有名なミュージカルで映画のほうが見たことがあるが、舞台を見るのはこれが初めてである。

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 初演は1970年代だが、作品じたいの舞台は1950年代である。高校生のダニー(三浦宏規)とサンディ(屋比久知奈)は夏休み中にビーチで出会って恋に落ちるが、サンディはよその学校に行く予定だということで夏の終わりに別れる。ところがサンディは寄宿学校に入る予定が変更になり、ダニーと同じ高校に転校してきた。しかしながら不良集団Tバーズのリーダーであるダニーは、自分のイメージとは全く違う真面目なお嬢様であるサンディを真剣に好きになっていることを他のメンバーにからかわれたくなく、サンディに冷たい態度をとる。二人の恋の行方は…

 歌やダンスがたいへんキャッチーで音楽的にはとてもよくできている作品だし、50年代ノスタルジア風な衣装などもオシャレで、その点については楽しめる。しかしながら台本がさっぱりダメ…というか、ダニーは始終、自分の見栄のことばかり考えていて最後までに成長しないのにサンディばかりが悩んだ末に外見を変えるということになっていて、ずいぶんと男性中心的な展開である。全体的にダニーがあまりにも挙動不審かつ自己中心的で、とくにドライブインシアターの場面などはあそこで決定的にサンディにふられても当然と言えるくらい態度がひどい。歌とダンスは素晴らしいがお話がダメな作品ということで、そのへんは時代の制約を考えて見るしかないんだろうと思う。

 

グリース (字幕版)

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韓国で撮る必要あるの?~『聖地X』(ネタバレあり)

 入江悠監督『聖地X』を試写で見た。

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 小説家志望の輝夫(岡田将生)は父親が残した遺産である韓国の別荘で暮らしていたが、そこに夫と別れて出てきた妹の要(川口春奈)がやってくる。ところが要は町で夫の滋(薬丸翔)を見かけたあたりから不審な出来事が起こるようになる。どうやら原因は近くにある開店準備中の和食店らしいのだが…

 発想じたいはたいへん面白いホラーだと思うのだが、それが全然生かせていない…というか、いくつか大きな問題がある。まず、一番大きな問題は韓国で撮る意味が全く見いだせないということである。途中で韓国の土着の祈祷師であるムーダンが出てくるのだが、そこ以外に韓国という設定に意味があるところは全くなく、単に「外国のきれいなところに行きたいから撮りました」みたいになっている。ムーダンも別にムーダンである必然性は無いので、沖縄か奄美か、あるいは東北のどこか昔の民俗的風習が残っているところでやったほうがいいと思う。

 次に、オチの付け方が強引すぎる。あまりネタバレにならないようにぼかして書くが、最後に韓国に残った滋の問題が完結する過程があまりにもいい加減である。私の意見では、要があの滋(たぶん滋の中では一番まともな性格が集まった滋なのではないかと思う)と結局一緒に幸せに暮らしました、という方向性にしたほうがホラーコメディとしては面白いのではないかと思う。全体的にこの映画は怪異現象の原因には興味がなく、いかにも意味ありげに出てくる和食店のご神木と井戸の詳細なども全く説明されず、どうやって滋の問題を解決するかに重点が置かれているので、ホラーというよりはブラックコメディふうにまとめたほうがいいと思う。

 もうひとつの問題は、これは要を中心の台本にすべきだったのに、輝夫が主人公なので構成がはっきりしなくなっているということだ。プロット上で一番大事なのは要がどうやってボロボロになった結婚に決着をつけるかということなので、たぶん要をヒロインにしてホラーコメディ風にまとめたほうが一貫性のある話になる。ところが輝夫を主人公にしているせいで、離婚をめぐる話なのか、頼りない男が謎解きを頑張るミステリ風ホラーなのかよくわからない感じになってしまい、非常にはっきりしない。

ヒロインを不必要にかわいそうに描かない~『リスペクト』

 『リスペクト』を見てきた。アレサ・フランクリンの伝記映画である。

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 アレサ・フランクリンジェニファー・ハドソン)の歌手としての波乱の生涯を描いたものである。幼い頃から才能に恵まれた歌手だったが、(おそらく性的虐待の結果として)子どもを2人産んだ後、父である厳格なC・L・フランクリン師(フォレスト・ウィテカー)の影響もあり、なかなか歌手としてヒット曲を出せずにいた。父の影響から離れて業界人のテッド・ホワイト(マーロン・ウェイアンズ)と一緒になる。苦労の末にマッスル・ショールズ・スタジオで行ったセッションから道が開けるが…

 アレサが父や夫などの干渉をはねのけ、ミュージシャンとして成長する様子を丁寧かつドラマティックに描いた作品である。この手の映画としては非常にきちんとミュージシャンとしての楽曲制作過程や成長を描いており、言われれば何でも器用に歌えるがゆえになかなか独自色を出せなかったアレサが、有名なマッスル・ショールズ・スタジオでやっと音楽的にうまがあうミュージシャンたちと会って自分らしい曲作りを発見する様子が生き生きと描かれている。ジェニファー・ハドソンが演じているのでもちろん歌は折り紙付きだ。途中でダイナ・ワシントン(メアリー・J・ブライジ)が若手をいじめるみたいな振る舞いをするのかと思ったら実はアレサをけっこう気にかけてくれていて…というオチの展開があり、このへんはステレオタイプなディーヴァぶりになっていなくて良いと思った(ただ、これは実際はアレサじゃなくエッタ・ジェームズとダイナ・ワシントンのエピソードだそうで、アレサはワシントンから楽屋が汚いと怒られたそうだ)。

 この映画のもうひとつのポイントとして、アレサをできるだけ「犠牲者」っぽく描かず、徹底的にソウルの「女王」らしく描いているというところがある。性的虐待はほのめかされてはいるのだが、虐待じたいの場面は出てこない。家庭内での虐待などの描写もこの手の作品としてはわりと控え目だと思う(それでも非常にイヤな感じはするのだが)。また、この手の映画としてはミュージシャン自身がエグい人種差別を受けて犠牲者になるというような場面があまりなく、全体的にヒロインをかわいそうな目にあわせて同情をかき立てようというようなことをしていない。かわりにこの映画がやっているのは、才能がありすぎるアレサを阻む構造的な問題を描くことである。なかなか売れないのはマーケティングや、なんでも歌える器用な黒人女性歌手のクリエイティヴィティをきちんと引き出せていない制作体制が原因として描かれており、人種差別よりはむしろ構造的性差別のほうが大きいファクターとして出てきている(もちろん人種差別も相当に影響はしているのだが)。一方でアレサが公民権運動に積極的に参加している様子が描かれているのだが、わりと意識的にアレサは構造的な人種差別と戦っているのだというような描写になっていると思う。全体的にこの作品は女王が構造的差別と戦うお話だ。

 そういうわけで非常に意欲的な映画ではあるのだが、ひとつだけ私が残念だったのは、ボディポジティヴ運動に関連するような話題が出てきていないことだ。アレサはとてもデカくてゴージャスな女性だったのだが、体重をいろいろ言われてダイエットをするなど、体型に関する悩みはそこらの女性同様にあったはずだし、また一方で太っている女は不細工だなどという偏見を吹き飛ばして華やかな衣装を着こなす、体型を気にする女の子(とくに黒人の女の子)にはロールモデルになる女性だったと思う(ジェニファー・ハドソンも体重のことを言われてダイエットした経験がある)。しかしながらそういうことはこの映画では一切、触れられていない。最近のボディポジティヴの動きを考えると、そのへんを少しでもいいから組み込んでもらえたらよかったのなぁと思う。

『シモーヌ』Vol. 5に寄稿しました

 『シモーヌ』Vol, 5に寄稿しました。日記特集で、17世紀のシングルマザー、ビジネスウーマン、詩人だったキャサリン・オースティンについて寄稿しています。書誌情報は以下のとおりです。

北村紗衣「一七世紀のロンドンでババア呼ばわりに抗うーキャサリン・オースティンの生活」『シモーヌ』5(2021)、49-52。

 

 

セットや衣装にも気を配ったしっかりした上演~『カプレーティとモンテッキ』

 日生劇場で『カプレーティとモンテッキ』を見てきた。こちらはベッリーニのオペラで『ロミオとジュリエット』と同じお話を原作にしているが、かなり内容も味わいも違う。ライヴ上演ではないが、ジョイス・ディドナートがロメオ役の上演が配信されており、そちらを見たことがある。今回の上演は粟國淳演出、鈴木恵里奈指揮によるものである。 

opera.nissaytheatre.or.jp

 剣が刺さった壁みたいな背景があるセットで、この壁は真ん中で分割して動かすことができ、これを使っていろいろな場面の背景を転換している。おそらくカプレーティ家とモンテッキ家の政治的分断を示唆するために、こういう分割できる壁みたいなセットにしたのだろうなと思った。衣装はわりとルネサンス風で、正攻法でしっかり見せる感じの舞台である。最後のカプレーティ家の墓所の場面では透明な仕切りの後ろにジュリエッタが横たわるところから始まり、けっこう幻想的で不穏な感じなのだが、そこでロメーオ(加藤のぞみ)とジュリエッタ(オクサーナ・ステパニュック)が一緒に亡くなるところを見せることにより、分断とそれに対する抵抗を示そうとしているのかなと思った。

 珍しくオーケストラに近い前方(ただしすごく右寄り)の席で見たせいだと思うのだが、最初はパーカッション(トライアングル?)の音がやたらデカく聞こえて慣れるまで時間がかかったものの、音楽は大変ドラマティックで良かったと思う。当日配布のプログラムにも詳しく書かれていたが、わりと伴奏がシンプルで美しいメロディを強調する感じの音楽である。テバルド(山本耕平)がシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』よりかなり大きい役で、大活躍していた。

 シェイクスピア劇よりはるかに政治的な要素がはっきりしており、シェイクスピア劇ではロミオはまだ少年と言っていいような若さでたいして政治のことも考えずに恋のことばかり考えているのだが、この作品ではロメーオが最初から若いながらもモンテッキ家の政治闘争にかかわっていて、かなり政治劇らしくなっている。このあたりはプログラムにある原基晶先生の解説にも詳しく説明されており、観劇の上で役に役に立った。ただ、これは前に配信で見た時も思ったのだが、シェイクスピア劇に比べるとジュリエッタの主体性が弱くなっているように感じられるのは気になる。作られた時代の趣味の問題なのだろうか…