つらい。〜こまばアゴラ『出口なし/芝居』

 こまばアゴラ劇場で双身機関『出口なし/芝居』を見てきた。『出口なし』はジャン=ポール・サルトル作、『芝居』はサミュエル・ベケット作の不条理劇で、この二作を同じセットで続けてやるというものである。演出は寂光根隅的父である。『出口なし』は一度見たことがあり、『芝居』は読んだことはあるが実際に見たことはなかった。

 『芝居』のセットというのはクセモノで、3つの壺に2人の女と1人の男が入っているというものである。動きが一切ない。このセットで『出口なし』をやるので、『出口なし』も動きが全くない芝居になり、これが大変つらかった。まあこういう演出もあっていいとは思うのだが、個人的にはあまり面白いとは思えなかった。『芝居』は予想していたとおり実につらい芝居だった…もう見たくない。 

正攻法に人生がつらい〜Kawai Prooject『ゴドーを待ちながら』

 こまばアゴラ劇場でKawai Project『ゴドーを待ちながら』を見てきた。私の指導教員である河合祥一郎先生の新訳で、演出も河合先生がつとめている。


 おそらく私が今まで見た中では一番正攻法で丁寧な『ゴドーを待ちながら』である。セットは何もない舞台に木が一本あり、衣装も浮浪者風の地味な服装で、いけすかないビジネスマンふうのポッツォの衣装や奴隷労働にさらされ搾取されているラッキーの衣装についてもあまり奇はてらっていない。イアン・マッケラン版はなんか暗い中にもほのぼの老人力全開という感じになっていたし、東京乾電池版はヴラディーミルとエストラゴンがかなり若くて希望がない若者の話になっていたところがあったのだが、このこまばアゴラのプロダクションはヴラディーミルが原田大二郎エストラゴンが高山春夫で、かなり個性の違うおじちゃま2人が不条理漫才的なものを繰り広げる展開になっており、台本を読んで読者が想像するものにかなり近い演出になっていると思った。新訳の台詞もわかりやすく、役者も皆明晰な台詞回しでそつなくこなしている。

 で、オーソドックスな『ゴドーを待ちながら』というのは、とにかくつらくて眠い中にハッとするような笑いや人生に関する鋭い考察が秘められているというものになる。基本的に「何も起こらないのが2回ある」とか言われているような戯曲だし、また私は学部の時の演習科目で「ベケットは芝居を見ることのつらさを最も考え抜いていた劇作家だ」と教わってそれ以来これを心に留めておくようにしているのだが、本当にただただ何の解決もなく続いていくつらく鈍い人生を象徴するような芝居が『ゴドーを待ちながら』である。こういうお芝居は面白くてハラハラするようじゃダメで、時計をにらんで「ああいったいいつこの苦しみが終わるんだろう」と思い、たまにはうつらうつらしながら(劇中でも皆寝ちゃったり失神したりしているので、作者も客が意識を失うのを想定して書いてると思う)、突然降って湧いたように出てくるやたら笑える展開や鋭い台詞に「こんなんじゃダメだ。起きて人生について考えなきゃ」と思って起こされるようでなければならないと思う。このプロダクションはまさにそういう『ゴドー』で、そんな中でひとりだけ覚醒し、記憶し、人生の意味を問い続けようとしている原田ヴラディーミルが物凄くつらそうに見えてくる。原田ヴラディーミルはわりと論理的で、劇中で居眠りしたり失神したりしないよう気をつけているし、なんとか人生に楽しさとか生き甲斐とかを見いだそうと努力をしている。ところがそんなヴラディーミルが第二幕の途中で他の3人と一緒に木の下にぶっ倒れて「ああ、このまま起きたくないなー」という表情を見せる。この場面は基本的に皆寝っ転がってるだけで全然動かないのだが、個人的にはかなりスリリングな場面だったと思う。このままヴラディーミルが起き上がるのをやめて眠っちゃったら、それだけでこの戯曲の唯一の糸口が失われてしまうのではないか…という切迫感をかきたてられてしまった。


 そういうわけで、正統派に人生のつらさを考えさせてくれる『ゴドー』である。現代的な冗談を取り入れていて笑うところもたくさんあるし、主役の2人の息の合った掛け合いや、労働を搾取するポッツォが結局悲惨な運命に陥ってしまう展開なんかも、つらい中にも面白く見られる。

若いのに、こんななのか〜東京乾電池『ゴドーを待ちながら』

 ザ・スズナリで劇団東京乾電池の『ゴドーを待ちながら』を見てきた。柄本佑柄本時生主演ということで、ウラジミールとエストラゴンがかなり若い。

 非常にちゃんとした『ゴドー』だと思ったのだが、とりあえず柄本兄弟が出てきた瞬間になんともいえない出オチ感があって笑ってしまった。最初だけやたらに棒読みで「芝居」感を強調しているのにあとからだんだん普通になってくる台詞回しとかは少し一貫性がなく、この間の『ハムレット』を思い出してしまってちょっとどうかな…と思ったが(最初の棒読みで全編ゴドーをやられたら私死ぬわと思って焦ったのもあったけど)、全体的には柄本兄弟の息がぴったりあっていて、笑えて絶望できるいいゴドーだったと思う。しかし、以前イアン・マッケランのゴドーを見た時は年老いたゲイカップルがもうろくしているみたいな感じだったのだが、これだけにせカップルが若いと、若いのにこんななのか…と思ってなんか絶望感がより大きくなる気がした。どこにも行き場がなくてどこに行っても忘れてしまう、悲惨な若さである。台詞では何十年も一緒にいると言っているので、長くてつらい時間をたっぷり生きてきたはずなのにまだ若く、首をくくる縄がないので死ぬのもできないって、おそろしい閉塞ぶりである。

 しかし、最初の棒読み台詞をきいていて、ゴドーとかツイッター使って上演したらいいんじゃないかな…と思った。

ベケットはつらい。人生もつらい。でもそれはくだらないってことじゃない〜サミュエル・ベケット『ソロ』

 シアターχで、アイルランドの劇団マウス・オン・ファイアによるサミュエル・ベケット『ソロ』公演を見てきた。ベケットの比較的短い一人芝居、『わたしじゃない』『モノローグ一片』『クラップの最後のテープ』を連続上演するというもの。

 一言で言うと、感想は「つらい」。私は学部生の頃、「芝居を見るというのはつらいことだが、ベケットはそのつらさを最も意識的に活用した劇作家」であると習った。ということでベケットの芝居というのは本当に見ていてつらいし、さらに一人芝居となるともうつらさMAXである。しかしながらつらいというのはくだらないとか価値がないということではない。人生もつらいが、くだらないとか価値がないものではない。それと同じだ。

 最初の『わたしじゃない』と『モノローグ一片』は、全く動きがない芝居なので(前者とか暗闇で唇が動いてるだけだし)、まるでラジオを聞いてるみたいでとにかくつらく、なんか能みたいでたまに意識が遠のきそうになったのだが、後半の『クラップの最後のテープ』は、さすがに一人芝居の傑作と言われているだけあってとても面白かった。記憶装置としてのテープの使い方に気が利いているし、クラップの語りや動きには乾いた哀感ととぼけたユーモアがある。『ゴドーを待ちながら』や『勝負の終わり』なんかに比べると『クラップの最後のテープ』には独特の愁いを帯びた優しさがあるように思うのだが、どうだろう。

ヘイマーケット座、イアン・マッケラン主演『ゴドーを待ちながら』

 ヘイマーケット座、イアン・マッケラン主演『ゴドーを待ちながら』を見てきた。


 全体的に面白かったと思うのだが、ひとつ思ったのは、『ゴドーを待ちながら』は見ていてすごいつらい芝居だということである。つらいというはチェーホフみたいに人間に対する視線が冷たいとか、シェイクスピアみたいに大人から子供まで残虐にバタバタ死ぬとかそういう「つらい」ではなく、ものすごい睡魔に襲われる瞬間が必ずあるということである。なんというか見ていてひどく疲れるし、台詞が何を意味しているのか半分はわからないし(日本語でもわからないと思うが英語だとなおさら)、ある瞬間は爆笑かと思ったら次の瞬間には信じられないほどたるくなるという意味不明な起伏がある。前見た『勝負の終わり』も基本的には面白いけどやっぱりものすごい睡魔に襲われる瞬間があったので、これはおそらくベケットが意図的にやっていることなのだと思うのだが(学部の演劇の授業で「ベケットは芝居を見るつらさについて最も自覚的であった劇作家です」と習ったな…)、あれはアイルランド的な人を食ったユーモアの極北なのか、それともアーティストとしてのこだわりなのか、私はベケットに詳しくないのでいまいちわからない。ゴドーがすごいつらかったのは、一幕と二幕がほとんど同じ内容だということである。二幕は一幕にちょっとだけ変化を加えて、しかもより暗くなるので、見ていて厳しいったらありゃしない。



 とりあえず役者の芝居はすごくいい。イアン・マッケランエストラゴンはなんか「可愛くボケたじいさん」みたいな感じで、いつもの現存する世界一セクシーなシェイクスピア役者の面影はあまりない(この人は70近いはずなのだが、去年の「世界で最もセクシーなヴェジタリアン」候補だった)…のだが、カーテンコールではエストラゴンじゃなくていつものシャープなサー・イアンに戻っていて、こいつはミック・ジャガーと並ぶイギリス屈指のバケモノパフォーマーだなと思った。
 ロジャー・リースがウラジミルの役で、なんでも去年の初演ではこの役はパトリック・スチュアートだったらしいのだが、優しくて良い感じなんだけどおそらくスチュアートほどの迫力はなかったのでは…と思う(スチュアート版は見てないんだけど、予想)。マシュー・ケリーのポッツォとロナルド・ピックアップのラッキーも頑張っている。とくにラッキーの長台詞は全く何がなんだかわからなかったが、それでも寿限無みたいで面白い。


 全体としては芝居の達者なエストラゴンとウラジミルをフィーチャーした温かめのゴドーになっているのだが、なんというかそのせいでこのプロダクション自体が「老い」をテーマにした結構明るい話みたいに見えてならなかった。ゴドーっていうのは本来なんかもうちょっと不条理で孤独な厳しい話なのではないかと思うのだが、ちょっとエストラゴンに老人力がありすぎて(ウラジミルに「昨日ポッツォに会っただろ!!」とか迫られるところは本当に好々爺っぽい)、一幕と二幕が繰り返しなのも「まあ老人だから覚えてなくてもしょうがないよねー」みたいに見えてしまうところがある。実は一幕はウラジミルの妄想でボケ気味なのはエストラゴンじゃなくウラジミルのほうなのかもとか考えるとより面白いかもしれない。
 演出もすごくユーモアが強調されているので、盲目のポッツォと口のきけないラッキーが倒れ込んでくるとことか、最後にエストラゴンとウラジミルが自殺をはかろうとするところもそこまで暗くない気がした。とくにエストラゴンとウラジミルが自殺を諦めてゴドーを待つことにするのは開き直った希望さえ感じたんだけど…なんていうか、年取ったり重病になったりすると、生きている時間は期限つきで借りてきた時間のように感じられてくるのではないかと思うのだが、ゴドーはこの期限付きの人生の最後を象徴しているような気がしてならない。エストラゴンとウラジミルはロクでもないしょぼくれた老後を生きているのだろうし、最後は自分らで自殺すら考えるが、結局二人で「ゴドーを待って、自殺はその後に…」と考え直す。ボケ気味のじいさん二人でなんやかんやで助け合って老後を過ごすというのは、実はすごく美しいことなんじゃないだろうかとか考えて見ていると、なんだかえらく楽しい芝居のような気がしてしまった。


 しかしながら、おそらくゴドーはそういう芝居じゃないんではないかと思うので、このプロダクションがゴドーらしいゴドーなのかどうかについてはかなり疑問がある。ゴドーはもうちょっと厳しくて不条理な芝居であるべきなんじゃないのだろうか…しかし、この間の『勝負の終わり』もそうだが、最近ベケットを「家庭劇」っぽく演出するのが流行ってるのかね…私の見方のせいで家庭劇っぽく見えるのかもしれないのだが、ひょっとしたら不況のせいで「人間の孤独!」とか大上段に構えたテーマよりは「老後どうする」とかそういうドメスティック指向の演出が流行ってるのかもしれない。