高梨豊展とミロ展と『雲。家。』

 今日は昼から出かけた。まず、国立近代美術館に行って無料券で高梨豊展を見た。まあ普通の写真展だったのだが、一番面白かったのは淀川長治の写真だった。一枚目はすごい元気に淀川さんが笑ってる写真なのに、二枚目は寝間着姿で淀川さんがベッドに倒れ込んでるというもので、悪意というかユーモアというかなんというかを感じた。それから街角の写真を展示したセクションに、私のex交際相手が住んでいたすぐ近くの場所の写真があってびっくりした。あんなところにも写真家はやって来て写真を撮るんだな…グーグルストリートビューなんかなんぼのもんでもない。


 その後、国立近代美術館から東京駅まで歩いた。初めて歩いたのだが大変わかりやすくてすぐ行けた。大丸でミロ展を見たのだが、あまり大作はなかったし展示数も割合少なかったような気はしたものの、ミロの絵を見ているとなんでいつも楽しい気持ちになってくるんだろうと不思議に思った。技術的に優れているとはあまり思えないし、なんか習字で失敗したみたいな感じの絵とか何が描いてあるのかよくわからないものもあるのだが、それなのに見ているだけでスタッカートいっぱいの音楽が聞こえてくるような感じがする。


 その後西巣鴨で『雲。家。』を見た。これはエルフリーデ・イェリネクの戯曲で、女優さんがひたすら「わたしたち」を主語とするさまざまなテキストからの引用を読むというもので、なんか一聴したところはすごいつまんなそうな芝居に聞こえるが、全然そんなことなかった(「たのしいお芝居」では全くないが)。テキストにはいろいろドイツのナショナリズムが反映されているのだが(シラーとかハイデッガーなんからしい)、とくに面白かったのは、いろんなテキストのつぎはぎなのに「母の家」対「父の国家」という対立がちゃんと維持されているとこである。「母の家」を守ることと「父の国家」を守ることは本来全く対立するはずなのに、途中で「父の国家、それはすなわち○○(←「言葉」だか「文化」だかなんだかなのだが失念)の母…」という台詞があって、全く相容れない二つのものが言語とか地縁とかいう生臭いものを介して一緒にされちゃうという近代ナショナリズムの強引なロジックがとてもうまく表現されていると思った。


 その後休憩をはさんでポストトークがあった。休憩時間にどうも聞き慣れた声がするなと思ったのだが、この声の持ち主は現在どう考えても都内にいるはずないから私の勘違いだろうと思い、ポストトークを聴いて(なんかポストトークが同時上演の『サンシャイン63』の話ばっかりなのはよくないと思った。サンシャインをこれから見るから内容についてあまり知りたくないという人だってきっと来ていただろうに…)、帰ろうとしたら、なんとそのどう考えても都内にいるはずのない知人に「さえさん!」と挨拶されてびっくりした(一時上京していたらしい)。この知人と私は別に芝居つながりではないのだが、お互い演出家さんを知っているらしいことがわかってびっくりした。ひとしきり話して、その後一応スタッフに知人がいるはずなので挨拶して帰ろうと思ったのだが、結局スタッフの皆さんはみんな忙しそうで働いているはずの知人も見つからなかったので、そのまま帰ることにした。