『オーストラリア』の、アボリジニの伝統呪術はダウジングだった?

 昨日は『オーストラリア』『チェンジリング』『ベンジャミン・バトン』を見て、あと文化村で『ピカソとクレー』展も見てきた。

 
 …で、バズ・ラーマンの『オーストラリア』なのだが、大変前評判が悪いのでどんだけひどいかと思ったら、なんも私は全然面白かったのだが…アボリジニ同化政策の描き方が多少粗雑だとは思ったし(主役はもちろん「いい白人」で人種差別には批判的な人物として描かれているし、アボリジニの登場人物も比較的きちんと描かれているのだが、オーストラリア人でない人も見る映画なんだからもっと説明があってもいいと思う)、日本軍はオーストラリア近海の島には上陸してないはずなので(南太平洋のどこか別の島とごっちゃにしていると思われる)、オーストラリア研究の専門家が見たら史実に関して間違ってるとこが山ほど出てくるのかもしれないが、バズ・ラーマン流のキャンプなセンスが変な形で炸裂(?)しているような気がして私はかなり楽しめた。


 とりあえずはバズ・ラーマンが『風と共に去りぬ』をすっごい愛しているらしいのはわかったのでそれで結構点が甘くなってしまったのもあるのだが、『風と共に去りぬ』と違うのは、『風と共に去りぬ』が男女の物別れを描いているのに対して、『オーストラリア』は男女が和解するまでを描いているってことである。ネタバレになってしまうのだが、ヒュー・ジャックマン演じる風来坊のドローヴァーは、恋人のサラ(ニコール・キッドマン)が養子にしているアボリジニの男の子の通過儀礼にやたらこだわっているくせして自分は大人になりきれていないところがあり、ニコールが「乾期は旅に出ていいけど雨期は戻ってきて一緒に子供を育ててくれ」と頼んでいるのに、どうも「家族に対して責任をとる」ということがピンと来ず、ニコールとケンカ別れしてしまう…ものの、最後は戻ってくる。これは『風と共に去りぬ』からすると大きな変化だと思う。


 それからこれは政治的に正しいのかどうかよくわからないのだが、アボリジニの呪術医(ガラパというらしい)の描き方が、カッコよくしようとしたせいで多少意味不明になっている…ニコールが養子にしている男の子のおじいさんであるキング・ジョージは大変力のある呪術医で、どういうわけだか孫がいる場所にはどこにでも姿を現すのだが(『エビータ』のチェや『リトル・ロマンス』のローレンス・オリヴィエもびっくりである)、砂漠で水を失った孫の前に突如現れて孫を水辺に案内する…ところでやるのがなんとダウジング!木の棒を手に持って歌を歌いながら水辺を捜すので、木で水脈を捜す普通のダウジングとは違うのだが、どうも私はあれはダウジングの一種にしか見えなかった。これって本当にアボリジニの伝統呪術なんだろうか…?それからキング・ジョージはどういうわけだか絶対に弾丸に当たらない人で、ダーウィンが爆撃されたときに冤罪で入れられていた監獄から出て、民族衣装(ほとんど半裸に近いのでもちろん防弾装備はなし)で空爆の中を悠々と歩く場面があって、ここはすごいカッコいいような気はしたのだが何かがおかしいような気もした。とはいえバズ・ラーマンはオペラ出身でリアリティを全く気にしないので、これはこれでいいような気もする。


 『オーストラリア』は、『風と共に去りぬ』と、全体のライトモチーフになってる『オズの魔法使い』(『風と共に去りぬ』に『オズの魔法使い』を加味するセンスが既にすごいと思う)以外にもいろいろな映画の影響を受けているみたいで、『アラビアのロレンス』(砂漠の崖の撮り方とか)、『キートンの西部成金』(子牛が出てくるところ)、タイトルは忘れたが何かジョン・フォードの映画とかへの愛着がそこかしこに感じられるので、たぶんバズ・ラーマンは自分が子供の頃見ていた映画をごっそり詰め合わせて自分の故郷に関する古典的ラブロマンスを作りたかったんだろうと思う(←これをジェームズ・キャメロン現象と私は勝手に呼んでいる)。まあ、私はとても面白かったんだけど、好みだな…