(エセ進化生物学的に)絶望するプリティ・イン・ピンク


 『プリティ・イン・ピンク』をやっと見終わった。


 この映画は学園映画の傑作として名高いのだが、私はさっぱり面白いと思わなかった…たぶん私がこの映画を好きになれてなかったのは、ヒロインがなんと裁縫が趣味であることと、あと基本的に"delayed fuck"映画だからである("delayed fuck"映画とは、ドキュメンタリー映画セルロイド・クローゼット』で提唱された概念。すごい表現だが、基本的には男女の婚前交渉を許さないプロットの映画を指す)。


 裁縫が趣味のヒロインっていうのは、現代からするとかなり微妙だと思う。ヒロインのアンディ(名前が中性的なこともポイント。中性的な名前は、ヒロインがあまり性的ではなくしっかりした女性であることを表す)は貧しいのでプロムに着ていくドレスを買えなくて、安物の既製服とバイト先のレコード屋の店長が昔プロムに着ていったドレスを組み合わせてミシンで縫ってドレスを作るのだが、裁縫っていうのはすっごい伝統的な「女性性」の表象で、アンディが家庭的ないい主婦であることを示すために用いられているとしか思えないのでなんか全然ダメだなと思った。例えばアンディがすっごいアート指向な子でファッションの分野でプロになろうとしているとか、あるいはアンディがやっているのが伝統的なキルトとかで女性同士の文化継承が強調されてるとかならまあいいかもと思うのだが、アンディの服作りは全部家庭で完結していてその外に出ないので、そこがすごく保守的だと思う。


 あとこの映画はどう見ても"delayed fuck"映画で、いじめっ子でプレイボーイのジェイムズ・スペイダーとかがえらく「性的に堕落」したティーンとして描かれている一方、アンディとそのボーイフレンドのブレーンは品行方正でいい子たちですねみたいに描かれている。まあ、80年代なんてどーせそんな時代だ。



 ただ、私はこの映画を見ていて別の意味でかなり絶望した。と、いうのは、私はアンディを一途に愛するブレーン役のアンドリュー・マッカーシーよりも、手当たり次第に女を口説いている全く誠意のない漁色家のステフ役のジェイムズ・スペイダーのほうが断然顔が好みだと思ったのである(←ちなみに、ステフはYシャツの下にシャツを着ていない。私は『或る夜の出来事』のクラーク・ゲーブルの断固たる支持者なので、男性はYシャツの下にシャツを着ないのが正式な着こなしだと思っている)。ステフはたぶん一種の「色悪」なんだと思うのだが、所謂色悪は演劇や映画が盛んな文化圏では結構女性に人気がある(「色悪」はそもそも歌舞伎用語だし、映画ならルドルフ・ヴァレンチノとかがいる)。私もだいたい映画を見ていると、ヒロインの誠実なボーイフレンドよりもヒロインに捨てられる色悪のほうがかっこいいと思ったりすることが多い。


 …で、それはなんでだろうと思ったのだが、どうもひょっとしたらそれは何か進化生物学的問題なのかもしれないと思って絶望した。色悪はいろんなところに無責任に遺伝子をばらまく能力を持っている→たぶん色悪の子供もいろんなところに遺伝子をばらまく能力を持っている可能性が高い。と、いうことは、色悪と子供を作ればその子供はいっぱい子供を作ることができる可能性があがるから進化生物学的に有利である。


 ところが、これは大いなるエセ進化生物学の罠である。人間は文化を持っている動物なので、たとえ遺伝子をいっぱいばらまく能力がある相手と子供を作ったとしても、その子供は文化的要因によって全然遺伝子をばらまく気なんかない人に育つ可能性がある。だいたい遺伝子をばらまく能力が本当に遺伝するかもあやしい。


 はたまたもう一つの罠としては、これは個人的な問題なのだが、私は基本的に自分の遺伝子を世の中に残したくないと思っている。それなのに遺伝的に有利そうな色悪のほうが顔が好みだというのは、これは私が200万年の歴史を持つ脳内進化ドライヴ(?)に知らず知らずのうちに操られていることを示している。私は、人間はすばらしい自由意志を持っていて宿命(生物学的であろうがなんであろうが)に対抗できたらいいなと思っているので(「できるはずだ」とは思っていない。「できたらいいな〜」という希望である)、知らず知らずのうちに遺伝子の罠に操られて自由意志が阻害されているのは人間性に対する挑戦である(←ほんとか?)。


 …と、いうことで、私は私の自由意志を守るために、色悪が好きだと思うのは映画とか演劇とかだけにとどめておいて、現実世界でそのへんに色悪がうろうろしてたらできるだけ離れておくべきだという結論に達した。まあ、私が住んでいる環境だとアクティヴな色悪はほとんどいないので、私の自由意志は安泰だとは思うが…

Girls Aloud, "Biology"