「あれを見ろ、さえの大群だ!」「さっき、部長がさえに変わったんだ。みんなどんどんさえに変身してる」

 …と、いうわけで、今日は文学座の『』を見てきた。

 文学座がある信濃町って行ったの初めてだったのだが、あまりにも創価学会門前町化していてびっくりした。しかも民音博物館の向かいには日本基督教団の教会があったので、ひょっとしたらこのへんでは超小規模に宗教紛争とかが起こってるのかもしれないと思った(もちろんこれは全くの私の妄想だが)。


 …で、『犀』なのだが、登場人物が私の座っている客席(舞台に近い席だったのである)のほうを見て「犀!犀!」って連呼しまくっていたのでどうも落ち着かなかったというのは別として、どうも私は脚本がちょっと古くなっているような気もした。いきなり街に犀が出現して、それを見た人々がどんどん自分たちも犀に変身しはじめるっていう話は明らかにファシズムとそれにまつわる同調圧力を想定してるのだが、なんかもう現代はファシズムを動物の比喩で表現できる時代じゃないと思うのである。登場人物が、「犀なんて醜い」「犀だって人間だって動物だろう」みたいなことで議論する場面があるのだが、犀を「醜い動物だから」ファシズムの隠喩として使うっていうのは別の危険があると思うのである。去年見た『友達』とかも、見方を変えないとただの古くさい話になっちゃう気がしたのだが、設定が単純な不条理劇っていうのは古くなりやすいのかもしれない。


 で、今回の演出では、最後まで犀に対抗するベランジェをなんかアル中気味でぼーっとしてて髪ボサボサでアホ毛どころかアホですらあるかもしれないピュアなイケメンとして表現しているようである(!)。ベランジェは無教養だけどピュアなので、同調圧力に屈することなく最後まで犀になることに抵抗し続けるわけだが、結局愛するデイジーに捨てられて、自分も犀になりたいけどでもなれないんだ…と覚悟するという悲愴なラストになる。私はどうもこのラストはあまり気に入らなかった…というのも、最後でいきなり主人公が異性愛をきっかけに「成長」しちゃう気がするので、これはどうも面白くないと思ったのである。ピュアなアホなら最後までピュアなアホで、「自分もほんとは犀になりたいのかもしれない」とか思わずに一貫していたほうがいいと思うのだが、脚本はそうなってない(これは「ちゃんとした」芝居なので、きちんと登場人物が劇中で「成長」するらしい)。やっぱりベランジェがピュアなイケメンアホなのはちょっと演出に無理があるんじゃないかと思った。


 あと、もう一点ちょっとなぁと思ったのは、全体的に演出があまり笑えないところである。これはおそらく客層の問題もあり、私が行った回は老人ばっかりでみんな真面目そうだったのもあるのだろうが、『犀』はほんとはきっとすっごくバカみたいな笑える話なんだと思うので、もっとみんな不真面目に笑いながら見たほうがいいし、役者のほうももっと笑いを狙っていったほうがいいんじゃないかと思う。