『バーン・アフター・リーディング』のブラピの役ってゲイだよね?

 今日は朝から『グラン・トリノ』と『バーン・アフター・リーディング』を見て、そのあと松屋でミヒャエル・ゾーハ展を見てきた。


 『グラン・トリノ』はとにかくよくできた映画で、主人公がコワルスキってことでちゃんと最後は期待を裏切らずに『バニシング・ポイント』っぽくなるし(???)、もうみんなから褒められまくっているのでみんな耳たこだと思う…のだが、ひとつ言っておくと、この映画の根底には「女は順応性があるのでほっといても結構立派な女になるが、男はそのへんダメダメなので、ほっとくと『悪い男らしさ』に傾いてしまうから人為的に『良い男らしさ』を学んで立派な男になる必要がある」という考えがあるようで、そこがどうもあまりにもマッチョすぎて私は好きになれなかった。もちろん、昔西部劇かなんかとってたような80近いじいさんがこの映画を撮っていることを考えるとそれはものすごい柔軟性だと思うし(70すぎてジェンダーとか民族間の文化的差異とかについて真面目に考えようと思う映画監督は少ない)、「男らしさ」がどう作られてるかっていうことについて非常によく考えている映画ではあると思うのだが、やっぱりどうも見ていてしっくりこないところがあるのである。



 …で、『バーン・アフター・リーディング』である。えーっ、この映画はかなりすごい。何がすごいって、全く何についての話でもないからである。言い方は悪いが、これは『サインフェルド』の衣鉢を継ぐポストモダン的お笑い世界だと思う…つまり、出てくる人も話の内容も良い意味ですんごくくだらない。体裁はブラックなスパイコメディで、一応マクガフィン的なものも出てくるのだが、結局マクガフィンマクガフィンですらなかったというオチで(!)、愛も血も涙もヘチマもカタルシスもなく、観客の期待を全て裏切って話がおしまいになる。コーエン兄弟の映画ってどこで笑えばいいのかよくわからなかったりするのだが、あれの一つの完成形だと思う。
 
 そこでタイトルの話になるわけだが、この映画の見所は間違いなくブラット・ピットが演じる筋肉バカのチャドである(←本当にものすごくバカに見えるのだが、なぜか死ぬと賢そうに見えたのでスパイに間違われる)。この筋肉バカブラピが、ジョージ・クルーニーが演じているセックス依存症気味の財務省職員ハリーに、クローゼットに隠れていたところを射殺される場面を見るだけでも1000円払う価値があったと私は思う。

 明示されてはいないのだが、たぶんチャドはゲイという設定…だと思う。なぜかというと、チャドと職場の同僚リンダ(フランシス・マクドーマンド)がオンラインデーティングサイトでいろんな男性の写真を見る場面があるのだが、ここでリンダが「どいつもこいつもパッとしない男ばっかり」と言うのに対してチャドが「この男は多少マシ、ブランドのスーツを着てるから」と(自分は全く普段スーツを着ないのに)スーツのメーカーを指摘する描写がある。この「ヒロインも知らないようなファッションブランドを知ってる」という描写は、心正しい男性諸君はあまり知らないと思うが、女向けの映画では同性愛者であることを示す伏線としてよく使われるやつである(例:『キューティ・ブロンド』。『クルーレス』もそうだった気がする)。その他にもチャドはやたらリンダにベタベタしているのに一切男女関係らしいものはないという設定だし、私の全くの妄想でなければこれはプラット・ピットが初めてやったゲイ役だと思う(『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』は微妙かな)。

 で、そんなブラピがクローゼット(もちろん隠れゲイの象徴)に隠れてて、まさにカミングアウトしてくるところを(!)クルーニーに撃たれるわけで、それって全くホモフォビア脱構築というか脱線というか、まあとにかくわけわかんないギャグであるような気がするのだが、この場面は絶対ブラピとクルーニーの私生活をあてこんでるに違いないと思う。なぜかっていうとクルーニーはハリウッド一のプレイボーイでかつ兄貴分、プラピはアンジェリーナ・ジョリーの連れ合いでかつ私生活ではクルーニーの弟分である。クローゼット射殺場面は、このハリウッドでもトップクラスの特権的ヘテロセクシャル男二名のホモソーシャル関係を絶対あてこんで撮ってると思う。

 …と、いうことで、もし『バーン・アフター・リーディング』を見た方は、ブラピの役がゲイかどうかご意見をきかせて下さい。ちょっとグーグル検索してみたんだけどブラピの役の性的指向について描いている批評がさっぱり見つからなかったんで…