スカーレット・オハラを全力で擁護する

 えーっ、たまたまこんなエントリが目に入った。

「ライトノベルに携わる人々は今一度「風と共に去りぬ」を読むといい」


 私、これの前半で扱われているライトノベルについては全く知識がないので何も言う資格ないのだが、後半の『風と共に去りぬ』に関するくだりにすごい驚愕した。



…以下引用…

「小説に限らずなんでもそうなのだが、本当の面白さや楽しみというのは、苦みや痛みと不可分なものである。コーヒーの本当のおいしさは苦みの中にこそある。小説の面白さは、感情移入しにくい、むしろ嫌悪感さえ抱かされるような、強烈で個性的なキャラクターの中にこそあるのである。

例えば、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラは、冒頭では、あらゆる読者から眉をひそめられそうな性格をしている。彼女はなにしろ友人の恋人に横恋慕し、あまつさえその友人を陰ではバカにし、悪口を言い、蔑んでいるのだ。

だから、たいていの読者は最初スカーレットを嫌う。しかし、そうした嫌悪感を乗り越え、嫌々ながらもスカーレットとともに物語の中を歩み、彼女の体験する艱難辛苦を共有することによって、次第にスカーレットが別れがたい、魅力的な存在となっていくのである。そうして5巻からなる大部の物語を読み終えた頃には、スカーレットは一生忘れ得ない親友となる。竹馬の友となる。あるいは心の支えとなる。よりどころにさえなる。スカーレットを知ったおかげで、生きていくことの勇気が出たという女性が、これまでどれほど多くいたことだろうか。」

…引用終わり…



 私、『風と共に去りぬ』を子供の頃から20回以上読みまくって映画も5、6回見たのだが、この論理展開が全く理解できない。


 まず間違っているのは、『風と共に去りぬ』は、スカーレットが「友人の恋人に横恋慕し、あまつさえその友人を陰ではバカにし、悪口を言い、蔑んでいる」というところを発端とする話ではないというところである。お話の開始時点でスカーレットとメラニーは友人でも何でもないので、スカーレットは「友人の恋人」を好きになったわけではない。お話冒頭ではメラニーが一方的にスカーレットを好いているだけで、スカーレットはメラニーをウザい顔見知り程度にしか思ってない(たぶんメラニーは一種のレズビアンだと思う)。それにスカーレットがアシュレに恋したのはアシュレとメラニーが婚約する前のことで、別に横恋慕したとかじゃなくて最初から好きだった。それに横恋慕というのは一方的な片思いをさすが、『風と共に去りぬ』ではアシュレがかなりのダメ男で、メラニーを愛しているのにスカーレットの美貌にフラフラよろめきそうになるというややこしい話なので、「横恋慕」というのともちょっと違う。



 それから、「たいていの読者は最初スカーレットを嫌う。しかし、そうした嫌悪感を乗り越え、嫌々ながらもスカーレットとともに物語の中を歩み、彼女の体験する艱難辛苦を共有することによって、次第にスカーレットが別れがたい、魅力的な存在となっていくのである」っていうのが全くわからない。あくまでも私の推測だが、ストレート女性読者はたぶんそう思って『風と共に去りぬ』を読んでいるわけではない。


 『風と共に去りぬ』がストレート女の絶大な支持を受けているのは、スカーレットと自分を完全に最初から同一視して見ているからであって、「最初は嫌いだが苦労を共にしたせいで好きになった」なんていう生やさしい美談ではまったくなく、もうちょっと女性の欲望がドロドロ表出してくるところにこの小説の人気のポイントがある。スカーレットは女性が現実にはできないけどやってみたいと思っている「悪行」(他の女のボーイフレンドをただそうできるからというだけの理由で奪ったり、好きでもない男と結婚したり、ビジネスで成功したり、妊娠してるのに外を歩いたり、ありとあらゆる世間の規範に外れた振る舞いをやる)を全てやってくれる存在だから女性に好かれているのであって、ものすごく嫌な女であることは女性陣にとって感情移入の障壁ではなく必須条件である。バカな男をバッタバッタと魅力で根こそぎにするスカーレットを好きになるにあたって、ほとんどのストレート女性は「苦みや痛み」を感じることはないと思われる。それどころかたぶん「もっとやれやれ!」と思っていると思う。そんなスカーレットが本気で愛する2人の男、アシュレとレットだけは単純なバカ男じゃなくて(どっちもそれなりのダメさを持っているのだが大人ではある)、魅力でバッタバッタとなぎ倒して手に入れるわけにはいかないというところがこのお話のキモなのである。


 どうやら本やら映画やらが好きな女性なんていうものは、みんな自分は本当はスカーレットみたいなbitchだと思っているか、あるいはいつかbitchになりたいと思っているらしい。別にこれは私の思いこみではなくて、『「風と共に去りぬ」のアメリカ―南部と人種問題』っていう本に、「自分はメラニーとスカーレットどっちに似てますか?」という質問を文学クラスの女生徒にきいたら、昔は「メラニー」が多かったけど今では「スカーレット」がダントツだという話がのっている。あと『セックス・アンド・ザ・シティ』シーズン2の最終話で、キャリーたち4人が「『追憶』とか『風と共に去りぬ』と同じで、現実世界でも男ってのは超ワイルドでセクシーで完璧に魅力的な女といると怖くなって大人しい女と結婚したがるようになるんだよねー」と、あきらかにキャリーをスカーレットや『追憶』のケイティになぞらえて話すとこがある(この会話からわかるように、メラニーみたいな女性は実はそこまで同性に好かれるわけでもない)。


 このエントリを書いている方はおそらくストレート男性だと思うのだが、ストレート男性は『風と共に去りぬ』を「感情移入できないようなbitchと作中で苦労を共にすることで感情移入できるようになる話」として読んでいるのかと思うと、全くジェンダー間の非対称にびっくり仰天である。まあ、ストレート男性読者は美人が苦労する過程を読んで好きになったりするのかもしれないけど…(でもそれって、「あたし、一見強いけどほんとはかわいそうなレディなんです!」っていうフリをしてしおらしく頼ってくるスカーレットにコロッと騙されちゃう、スカーレットの二番目の夫フランク・ケネディと全く同じ反応だよな)。リチャード・シッケルとリチャード・コーリスが選んだタイム誌の映画ベストに『風と共に去りぬ』が入ってなくて、どうも2人ともこの映画があまり好きじゃなかったかららしいという話なのだが、たぶんストレート男性には『風と共に去りぬ』はわかりにくい世界なんだと思う。一方でキム・エーデルマンの『チック・フリック 恋する映画ガイドブック』では、映画版『風と共に去りぬ』はチック・フリック(女の子映画)の古典として扱われている。