Truthiness vs. Fact(2)ウィキアリティを事実に近づけるために

 えーっ、昨日一昨日の続きってことで、今日は図書館のレファレンスサービスというものの根底にある理想について私の勝手な妄想を書こうと思う。


 それで、まずは『図書館戦争』風に、「図書館の自由に関する宣言」をちょっと引用してみようと思う。

2. すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。


3. 図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。


4. わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。


 これは日本で出た宣言で、アメリカにはこれのもとになった「図書館の権利宣言」とかいうやつがあるのだが、どっちも図書館は知る権利を守るための機関であると位置づけている。知識のある市民は民主主義の基礎になるものであり、図書館は市民が知恵をつけるための支援を行う機関である。


 …ところが、私が思うに、調べ物というのは本来あまり民主的でも自由でもないプロセスである。と、いうのも、調べ物の基礎となる事実の組織化というのは、事実を何らかの恣意的な基準(時としてあまり合理的でも効率的でもない基準)で統制して分類して階級化するという過程をたどって行う。図書館情報学で本の分類に使うNDCとかDDCとかはみんなトップダウン式の階層構造をとっているし(「言語」の下に「英語」「中国語」があるとかいうように)、分類用シソーラスなんかは検索用の語彙を統制するためにあるものである(コロン分類法っていうやつだけは立体的な分類を用いるんで、ちょっと違うが)。で、この階級分けの基準というのは結構適当で恣意的である上(「なんでこの本がここに」ということもある)、いったん分類を行うと、ある分類カテゴリに入った本を他のカテゴリにも分類するということはやってはいけない(「分類は相互に排他的でなければならない」)。つまりいったん分類されたカテゴリが決まっちゃうと、その本は一生その分類に属するわけである。調べ物の達人になるっていうのはこの分類を手中に収めることであり、めちゃめちゃ貴族社会的で階級間流動性の低い構造を理解することが強みになる。


 一方、グーグルは民主主義的かつ「自由」なシステムである。検索語彙は統制されてないし、リンクの多寡という「みんなの意見っぽいもの」で一ページ目にくるものが決まる。


 ところが、この「みんなの意見っぽいもの」というのがくせものである。ここで私が導入したいのが「ウィキアリティ」(Wikiality)と「トゥルージネス」(Truthiness)という、アメリカのコメディアンであるスティーヴン・コルベアが考えた概念である。「ウィキアリティ」というのは「ウィキ+リアリティ」で、「事実ではなく合意に基づく真実」を(まあもちろんウィキペディアからきてるわけだが)、「トゥルージネス」というのは、「事実ではなく直感に基づく真実らしさ」を指す。ちょっとわかりにくいのだが、たとえば

・AさんがBさんを殺害してCさんに罪をなすりつけた。
・DさんはCさんがBさんを嫌っているのを知っていたので、Cさんが犯人だとなんとなく思いこんだ。
・みんながDさんの言い分に同調した。
・Cさんが殺人犯として認定された。

 場合、Cさんが殺人を犯したというのは「事実ではなく合意に基づく真実=ウィキアリティ」だし、Dさんが「Cさんが犯人だ」と直感したのは「トゥルージネス」にあたる。


 で、事実と真実が一致しないと、冤罪は起こるわ、命に関わるような危険な間違いが科学としてまかりとおるわ、ロクなことがないわけだが、知識が不足している市民によって多数決が行われ、少数派の意見が顧みられなくなってしまうような民主主義社会(機能不全気味の民主主義社会と言っていいかも)においては、この「ウィキアリティ」と「トゥルージネス」が大手を振ってまかり通ってしまうことがある(例:ナチス)。この言葉を考えたコルベアが思い描いているのは911以降の反知性主義的なアメリカ社会で、「イラク大量破壊兵器を持ってます」とかはまさにウィキアリティの最たるものであったわけである(これについては物置に前作ったレジメをおいてあるので、興味ある人はそっちも参照)。


 ところが、市民はみんな忙しいしそんなにメディアリテラシーがありまくるわけでもないので(人間みんな結構バカなんだし、ごはん食べるだけで結構精一杯でメディアリテラシーとか考えてるヒマない)、ぼーっとしてるとアホなデマゴーグにそそのかされてウィキアリティを信じてしまうことが多々ある。その上、統制とか階層化とかいう概念が民主主義社会になじまないもんで、民主主義社会で自由と平等をむねとして生きてきた市民みんなが調べ物の知識をがっつり身につけるのは非常にきついものがある。


 …で、そんな中でウィキアリティに対抗して事実を提供してくれるところとしてあるべきなのが図書館である。理念的には、図書館は調べ物というあまり民主主義になじまない技術のプロをいっぱい置いておいて、民主主義社会の市民に奉仕するための機関として機能するべきである。市民がたくさん情報を得ると、そのぶんウィキアリティは事実に近づくので、デマが広がることが防がれ、より多くの人が冤罪やら危険やらを避けられる可能性が高くなる(まあ、これは私の理想であって全然機能してないと思うが)。



 …で、ここでまた私が一昨日怒った理由に話が戻っちゃうのだが、某大阪府知事ってどうも私の直感では(まあ、トゥルージネスではってことだが)「ウィキアリティ」の世界に属している人に見えるのである(ポピュリスト的な政治家ってみんなそういうとこあると思うが)。前の懲戒請求問題とかもそうなのだが、どうも私はこの人は事実に基づいた冷静な思考を尊ぶよりは、自分でウィキアリティを作って人をそれにのせることに興味があるように見えてならない(まあ、これは私のトゥルージネスだが)。で、たぶんそういう人にとっては「事実を提供する機関」っていうのは全然不要なものである。本人は全然そういうことを考えているわけではないのかもしれないが(つーか何も考えてないのかも)、この人が図書館とかに文句つけるのを見るたびに、私はどうもウィキアリティが事実を目の上のたんこぶ扱いしているように見えるので極めて気にくわん(いや、これはまったくもって私のトゥルージネスであるのだが)。


 …柄にもなくまじめに妄想を語ってしまったので、最後に図書館が出てくる楽しいSF小説『たったひとつの冴えたやり方』でも紹介して終わりにしようと思う。せっかく故郷から10000キロメートル離れたのにSF好きだった過去がバレたりしたので、ちょうどいいかも。