家庭劇としてのベケット〜『勝負の終わり』、ダッチェス劇場

 ベケット原作、サイモン・マクバーニー演出・主演の『勝負の終わり』を見てきた。チケット高い…でも字幕がついていたので、台詞はだいたい理解できた(言っていることが理解できただけで、言わんとしていることが理解できたわけではないが)。


 この話はベケット特有のあらすじを聞いただけでは全然つまらん戯曲で、目が見えず動けないまんま椅子に座って引きこもっている男ハムと、不満ながらもその世話をしているクロヴ、ドラム缶に入っているやっぱり動けないナグとネルが一つの部屋に閉じこもったまんまひたすらかみ合わない会話をするというものである。ネルが途中で死んじゃうのだが、まあ死んじゃうだけでたいして盛り上がらない。しかし、舞台にかけるとすっごい面白かった。


 で、なんで面白いと思ったかというと、この戯曲はすごく家庭劇っぽいと思ったからである。たぶんこの戯曲のテーマはサルトルの『出口なし』とかと同じで「人生は地獄だ」ってことなんだろうと思うのだが、「どういうふうに地獄か」というディテールのドメスティックさが『出口なし』とは段違いに細かい。


 なんで家庭劇っぽいと思ったかというと、まず、ぎいぎいきしむハシゴとかぬいぐるみとか小道具がやたら所帯じみており、動きの少ないこの芝居の中ではクロヴがその小道具をどう使うかが動きの中心になっているからである。この芝居はクロヴがハシゴを使ってカーテンをあけるところから始まるのだが、クロヴは大変ものごとの秩序にこだわる人で、「ものを全部最後にあるべき場所に置きたい」とか言う…ものの、家事をやっているかぎりは当然そうはいかないわけであって、朝起きたらあけ、夜寝るときにしめねばならないカーテンには「最後にあるべき場所」とかいうものはあるわけがない。それなのに片付けものを頑張るクロヴは、まるでアメリカの映画やドラマに出てくる完璧主義者の主婦かなんかみたいな満たされない感じである。クロヴ役のサイモン・マクバーニーが、ぎごちない動きでそれでもまめまめしく働く努力っぷりをとてもうまく表現していたのもあると思うのだが、この演出では「人生=終わりのない家事」にたとえられているような気がした。


 それからもう一つ家庭劇っぽさを醸し出しているのは、クロヴに精神的DVをはたらく引きこもりのハムと、出て行きたいと思いつつそれができずにまめまめしくハムに仕えるクロヴがまるで別れたくても別れられない共依存の夫婦のようだからである。クロヴはハムの養子であるようなのだが、どうもあんまり親子っぽくない。ベケットの戯曲にはよく二人で対になるヘンな人が出てくるので"pseudo-couple"(にせカップル)という術語まであるらしいのだが、この二人はニセカップルどころか本物のそこらへんの夫婦なみにリアリティのある腐れ縁に陥っている。おそらくマーク・ライランス演じるハムがあまり堂々としていないのと("self-indulgent"とか言われている)、サイモン・マクバーニーのクロヴがちょこまかしているせいではないかと思われるのだが、なんだかこの二人は不条理劇の登場人物というには所帯じみすぎていて、「目が見えない病気のDV夫と、出て行きたいのに出て行けず夫に優しくしてしまう妻」みたいな感じである。これって完全に家庭メロドラマの筋書きだ(台詞の意味不明さも含めて、ジョン・カサヴェテスの映画にありそうかも)。ハムが"I feel queer"とかいう台詞があるのだが、養子と夫婦じみた腐れ縁に陥っているハムとクロヴの関係はたしかに(悪い意味で)クィアである。


 …と、いうことで、たぶん今回の上演が私にとって面白かったのは、元の戯曲にあるキリスト教の黙示録的な雰囲気をあまり前面に押し出さずに、ある意味クィアな「家庭劇」に芝居を還元(良い意味で矮小化)するようなスタイルだったからではないかと思う。こういってはなんだが、こういう不条理劇って、でかいテーマをそのまま抽象的に出してきてもあまり面白いプロダクションになるとは思えない…客が卑近なものに引き寄せて見られるような余地を作らないと、いつまでも面白く見られる作品にはならないと思うのだが、『勝負の終わり』という戯曲にはまさにそういう「地に足の着いた不条理」感が溢れていると思う。


 しかし、ベケットが「家庭劇」として解釈されうるとわかっていてこの芝居を書いていたのだとしたら、それはすごいことだと思う。男二人のやりとりで「腐れ縁の夫婦」をしれっと連想させるような書き方ができる劇作家はそうはいない気がする。ベケットって実はすごくクィアな作家だったのかも…