『イギリス王政復古演劇案内』

drydenianaさんも執筆している『イギリス王政復古演劇案内』をやっと入手、読み終わった。



 これは早くでないかなーとずっと思っていたのだが、書店に並ぶ直前に私が渡英してしまったので今まで入手できず、この間アマゾンで注文して実家に無料配送してもらい、実家から送られてきた救援物資とともにイギリスに到着した。



 とりあえずイギリスの王政復古演劇については日本語で簡単に読めるものが全然ないので、こういう本はとても役に立つ。第一部が紹介をかねたエッセイ集、第二部が有名作のあらすじその他の情報ガイドで、文献表や年表、当時の劇場についてのまとめなども付録に入っている。情報量は大変すばらしい。


 基本的にはとてもわかりやすくいい本なので、英文学や演劇、あるいは17世紀イングランドのことを研究する人は是非買って手元に置いておくことをおすすめするのだが、ちょっと気になったところがいくつかあるので、下にメモっておこうと思う。

第三章「劇団、劇場、観客――王政復古期の劇壇事情」(南隆太)
「市民が劇場に来なくては経営が成り立たない現実が、王政復古期のかなり早い時期からあったといえる」(p.47)


→市民が劇場に来ないと経営が成り立たなかったのは王政復古より前のエリザベス、ジェームズ、チャールズの時代の劇場もたぶん同様だったのだが、この書き方だとそれ以前は劇場に市民がいなかったと誤解される可能性がある。16世紀末の劇場の客層について、正確なことははよくわかっていないのだが、アンドリュー・ガーその他の研究で、グローブみたいな露天の劇場にはかなり市民がいたことがわかっている。もっと前の時代との連続性について言及しながら書いたほうが初学者にはよりわかりやすかったのでは?(…まあ、このあたりはかなり議論が錯綜しているので、教科書的な本であまりつっこんだことを書くのは危険なんだと思うけど。)


第四章「俳優について」梶理和子

「ネルは国王の愛人となり、生涯を通じて国民からも愛されるという『シンデレラ・ストーリー』を歩み、ネルの生まれや娼婦めいたことをしていた前歴にもかかわらず、彼女の息子たちは爵位を得る」(p. 63)
「娼婦のまねのようなことをするのもやむをえなかったかつての女優とは一線を画する、職業人としてしっかりと自立した女優の姿がここにある」(p. 66)

 …うーん、これは学術的にどうとか初学者が間違いやすいとかそういう問題ではないんだけど、こういう書き方にはどうも違和感が。「娼婦めいたことをしていた前歴にもかかわらず」とか、「娼婦のまねのようなことをするのもやむをえなかった」とかって、娼婦に対する差別意識を疑われるような書き方であまりよくないと思うんだけど。そういうつもりはないのかもしれないが、昔売春していた人が女優としてスターになって国王に愛され、爵位をもらって国民にも好かれるという状況に何か問題があるようには思えないし(ネルは自分はアバズレだと自称していたらしいのだがそれでも国民に人気があったので、お堅い人々はともかく17世紀のロンドンっ子がこの人の前歴をそこまで気にしていたとは思えない)、女優が売春してようがしてなかろうが芸の上手い下手には関係ないと思うので、こういう留保をつけるのはあまり良くない気がする。それはもちろん売春したくないのに女優が売春させられるような状況は良くないに決まっているが、そういうことを書きたいならもっと誤解を招かない書き方にしたほうがいい気がする。

第六章「王政復古演劇批評」圓月勝博
(王政復古期の批評家、ライマーについて)
「批評がおもしろくなればなるほど、作品がおもしろくなくなっていく」(p. 104)

 これは見解の差異の問題だと思うのだが、そうかぁ…?批評っていうのは作品を面白くするためにあるものではないのか?「批評がおもしろくなればなるほど、作品がおもしろくなくなっていく」のは、批評か作品のどっちかに問題がある場合なんじゃない?


 あと、同じ第六章に「戦後日本の自虐史観」(p. 96)という言葉が登場してて驚愕。こんな言葉、学術書で使っていいのか?!とくに留保なしに用いられているんだけど、歴史学社会学の学生がこれを読んだらマジで引くんじゃない?先週のアカデミックライティングのクラスで、「論文では"loaded"な言葉は留保なしに使ってはいけません」と言われたんだけど、「自虐史観」なんてloadedな言葉以外の何者でもないんじゃないのかね?


コラム7「王政復古演劇とリベルタン――エンターテインメントとプロパガンダ」圓月勝博

「映画『リバティーン』に描かれた第2代ロチェスター伯爵は、快楽を追求する非政治的人間であるとともに、王政復古社会の秩序に進んで殉ずる政治的人間でもあった」(p. 124)

 これも見解の相違の問題だと思うのだが、「快楽を追求する」っていう選択、とくに王政復古期みたいに文化のいろいろな側面において道徳と快楽が議論されている社会において快楽を追求することを選択するっていうのは徹底的に政治的選択であるように思うので、「快楽を追求する非政治的人間であるとともに、王政復古社会の秩序に進んで殉ずる政治的人間でもあった」というのがなんで対置されるのかよくわからない。それってまるっきりひとつの政治的選択なんじゃないの?
 


 まあ、細かいところでいろいろツッコミはあったものの、全体としてはとても面白く読めた。第一部でリベルタン思想に関するところは、ヴィヨーとガッサンディの二系列の思想から王政復古演劇におけるストックキャラクターである「リバティーン」が出てきているという話が非常によくまとまっている(ただしガッサンディについては、専門家であるid:nikubetaさんのツッコミ待ちなのだが)。


 あと、個人的にはドライデンの『グラナダ征服』(すんごい複雑そうな話の芝居)と、トマス・シャドウェルの『ヴァーチュオーソ』が気になった。とくに『ヴァーチュオーソ』はマッドサイエンティストが登場する芝居で、ロバート・フックの実験や王立協会、有名な雑誌『哲学紀要』なんかど諷刺した内容が含まれているらしい。これは楽しそうだ。


 それからこれは全然内容には関係ないのだが、バッキンガム公爵Villiersの表記が一貫して「ヴィラーズ」になってて、『17世紀ブリテン諸島史』では「ヴィリアーズ」か「ヴィリヤーズ」になりそうなんだけど、これちょっと本当はどう発音するのか翻訳チームにはかったほうがいい気がしてきた。