シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』とウェスターマーク効果について

 ここんとこ、翻訳と日本語のハンドブック原稿が佳境に入っているせいであまりブログをちゃんと書けなくて反省している…のだが、昨日、ハンドブック原稿でシェイクスピアの問題劇『終わりよければすべてよし』について書いていて、ヘンなことに気づいた。


 まず、この作品は他のシェイクスピアの作品に比べると非常に違っているし、イギリス・ルネサンス期の他の芝居に比べても多少毛色が変わっている。以下に変わっていると思う箇所を三つあげる。


(1) 愛が階級を超える。
 ヒロインのヘレナは医者の娘(ルネサンス期の医者は今に比べると社会的地位が高くないことに注意)。ロシリオン伯爵夫人という高貴な寡婦に引き取られているのだが、いかんせん平民である。このヘレナはロシリオン家の若伯爵バートラムに恋しており、さんざん追い回したあげくにこいつをゲットする。つまり、愛が階級を超えた。

→ところが、シェイクスピアの他の作品で、愛が階級を超えるという描写はめったにない。『十二夜』で高貴な女主人オリヴィアに恋をする執事マルヴォーリオは笑いものにされる(まあ、マルヴォーリオっていうのは演劇嫌いのピューリタンを戯画化したような役どころで嫌なヤツなのだが)。これなんかまだお笑いだからいいほうなのだが、『二人の貴公子』で、牢番の娘は自分のところの監獄に入っている身分の高い騎士パラモンを愛するが、『パルムの僧院』路線でこの二人が結ばれるのかと思いきや、これがまたどうしようもない展開になっちゃって結局牢番の娘は同じ身分の相手と結婚するほかなくなるので、読んでいるほうはかなりいたたまれなくなる。『十二夜』のサー・トウビーとマライアは例外かもしれないが、マライアはおそらくオリヴィアに比べてそんなに身分が低くないのかもしれないと思うので(『ヴェニスの商人』のポーシャの侍女ネリッサは、女主人よりもちょっと身分は低いみたいだけどそれでもれっきとしたお嬢さんである)、「愛が階級を超える」路線が目立っているのは『終わりよければすべてよし』だけ。



(2) 強制結婚が肯定される。
 イギリス・ルネサンスの芝居では強制結婚は一大テーマで、たいてい喜劇でボロクソに言われるか、悲劇で不幸の原因としていましめられることが多い。そもそも恋愛喜劇というのは、若い恋人たちを頑固な親とか法律といった障害が阻み、それでも負けずに若者たちが愛を成就させるというのが伝統的な筋であるので、親が無理矢理子供を好きでもない相手と強制結婚させようとするというのが批判されるのはある意味必然である。その上、イギリス・ルネサンスの時代にはプロテスタント的結婚観が広まり、結婚は財産や親の取り決めとかによって行われるものではなく、信仰と責任感を備えた男女の合意による神聖な結びつきであるという考えが人気を博すようになったので、芝居は当然この流行の考えを受けて強制結婚を古くさいものとしてバカにする方向に向かった。
 シェイクスピアだと、『ロミオとジュリエット』はジュリエットを強制結婚させようとするキャピュレット夫妻に対してかなり批判的だし、『夏の夜の夢』でもハーミアを強制結婚させようとする頑固親父イージアスは見事に敗北。『ウィンザーの陽気な女房たち』もそうだし、ロマンス劇でも結婚の妨害とかはよくないものとみなされている。このほか、他の作家の作品だが、そのものずばりの『強制結婚の悲劇』や、『エドモントンの魔女』、『掟破り』なども強制結婚を批判する筋を含んでいる。

→ところが、『終わりよければすべてよし』では、バートラムは結局強制結婚を受け入れざるを得なくなる。始まった時点では、フランス国王とバートラムの母を中心にフランス宮廷の人はみんなヘレナとバートラムの結婚に賛成しており、それに抗っているのは当人バートラムだけということになるのだが、結局バートラムは最後ヘレナに折れて結婚を認める。ヘレナの女の執念が通ってハッピーエンドということになるものの、強制結婚が認められるという珍しいオチ。
 ただ、結婚相手のいない若者に強引な求婚者が現れるという点では『じゃじゃ馬ならし』によく似ている気もするので、ひょっとしたら『終わりよければすべてよし』は『じゃじゃ馬ならし』の男女入れ替え版と言えるのかもしれない。



(3) 近親相姦っぽい。
 …これは別に私が思っただけなのだが、『終わりよければすべてよし』は、ジェーン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』と並ぶ、微妙に兄妹相姦を描いた作品だと思う。『終わりよければすべてよし』も『マンスフィールド・パーク』も、最後に結ばれる二人は身分の高い男の実子+身分の低い女の養子というカップルで、私の感覚ではどうも同じ所帯で育てられた男女が結婚するというのはあまり健康的な関係には見えないのだが、まあ健康的でない男女関係が悪いということではないのでいいとしても、この頃のイギリス・ルネサンスの作品では近親相姦はいつも大変な悲劇になるのに、養子についてはとても曖昧なところがあるなと思う。ただし、ルネサンス期のイギリスでは養子が大変盛んだったので、このあたりは法律や社会慣習にあたって調べたら面白いネタが出てくるかもしれない。
 とはいえ、そう考えると、同じ所帯で育ったヘレナをバートラムが嫌うのは理解できなくもない。ウェスターマーク効果で説明できそうだ。しかしながらウェスターマーク効果も恐ろしい女の執念には勝てないらしい。


 …そんなわけで、『終わりよければすべてよし』は実に変わった作品だということを言いたかっただけなのだが、これはラストでバートラムが嫌い抜いていたヘレナを妻と認める場面の説得力がないということでとても上演が少ない作品である。でも、今ちょっと考えたんだけど、『じゃじゃ馬ならし』路線で演出したらどうなんだろう…だれか試した演出家いるかな?