英雄詩が始まる前には何があったか?ビートルズを作る前のジョン・レノンの伝記映画『ノーウェア・ボーイ』

 プリンス・チャールズ・シネマで、ジョン・レノンの少年時代を描いた映画『ノーウェア・ボーイ』(Nowhere Boy)を見てきた。基本的な筋としては、ジョンの実母でセクシーで派手なワーキングクラスの女性ジュリアと、その姉でジョンの養母であり、ロウワーミドルクラスの堅実な暮らしを営むミミおばさんがジョンの「母の地位」をめぐって戦いを繰り広げ、それが若いジョンにどういう影響を与えていたかという話である。


 全体的には非常に緊張感のある映画で、アーティストであるサム・テイラー=ウッドのデビュー作らしいのだが、初監督作にしては全然OKな出来だと思う。とにかく役者がみんな頑張っており、ジョン・レノン役のアーロン・ジョンソンは、50年代風の黒縁メガネがよく似合うリヴァプールの垢抜けない田舎のにいちゃんといった雰囲気を実によく醸し出していた(ナショナルポートレイトギャラリーの60年代音楽の写真展で見たのだが。60年代初頭のビートルズはほんとに田舎出のちょっとめんこい若者たちって感じで驚くほど垢抜けない)。
 それからミミおばさん役のクリスティン・スコット・トーマスとお母さんのジュリア役のアンヌ・マリー・ダフの演技合戦はほんと素晴らしい。ミミおばさんは厳しくて堅実でめったに感情を出さないのだが、実はジョンのことを目に入れても痛くないほど可愛いと思っているのは世間にバレバレで、よかれと思ってジョンにいろいろなことをしてやるのだが、その善意の方向性がほとんど全部間違っている。ジュリアとジョンの関係は実にヘンな関係で、お互いずっと離れて暮らしていてジョンが17歳くらいになってから急激に親しくなったという設定なので、距離感の取り方がよくわからなくて母子だか恋人だかわからんようなつきあい方になる(それを見たジュリアの現在の夫は当然不快)。この二人の姉妹は大変仲が悪く、ジョンの愛をめぐって闘争を繰り広げる。



 一応この話の主役はジョンなのだが、見ていると実際に焦点があるのはこの姉妹の関係で、ジュリアとミミの戦いはなんだかまるで神話に出てくる神々の争いでも見ているような気になる。そもそもビートルズというのは20世紀においてもう既に神話の英雄に近い存在になっているところがあるように思うのだが、ビートルズの中でもとくに「神話の英雄」にふさわしい立場にあるのがジョン・レノンである。ソングライティングの才能という点ではポールもジョンにひけをとらないと思うし、音楽的なカン(とくに技術的な面)という点ではジョージ・ハリスンに軍配があがるある気がするし、リンゴ・スターはみんなに好かれるキュートないいヤツである。でも反逆精神とユーモアを創作の形で見せることにものすごく長けていたとか、複雑な家庭環境とか、とにかく信じられないほどモテて恋多き男だったとか、ずば抜けたカリスマがあったとか、悲運の最期とか、そういうさまざまな点でジョン・レノンビートルズの中で最も「神話の英雄」らしい。

 と、いうことで、結成前のジョン・レノンを描くというのは、ナザレで大工さんやってた若者イエスを描くとか、スキュロス島で女装して女の子の後を追っかけてた頃のママっ子アキレウスを描くとか、そういう感じのものに近くなる。こういう話を描くときは「英雄はどうして英雄になったのか」がテーマになるので、主人公であるはずの英雄は結構ガキで未熟であり、その英雄を教育する親とか師とかのほうが見ていて面白い役になったりもするのだが、『ノーウェア・ボーイ』もまさにそういう感じである。


 とりあえずこの映画を見ていて私が一番思い出したのは、アドーニスをヴィーナスとペルセポネが取り合うギリシャ神話である。ジュリア(ヴィーナス、愛の女神)がミミ(ペルセポネ、冥界の女王)にジョン(アドーニス、美と若さの象徴)を預けておいて、後で取り返そうとしたときには既にミミがジョンから離れらなくなっていたというところがこの神話そっくりだ。ただし、女神同士の戦いが焦点にあって最後にアドーニスが死んじゃう神話とは違い、『ノーウェア・ボーイ』は「英雄はどうして出来たか」をテーマにしており、ジュリアがミミと和解した後交通事故死するという話になっている。ジョンはジュリア(自由、芸術、欲望などの属性を持っている)とミミ(家族愛、勤勉、自律といった属性を持っている)という二人の母からそれぞれ違った種類の愛情を注がれて英雄となった、というのかこの話の基本的なストーリーだと。そう考えると、これは意外に「妹の力」系の神話に沿った作りの「英雄前日譚」かも。


 と、いうことで、全体的には面白かったのだが、最後はちょっと大げさかなぁという気も…あと、このジャンルでは『バック・ビート』という先駆的な作品があって、あれはかなりひねりが効いていて出来もよい上、60年代初頭のヨーロッパの音楽シーンの雰囲気を出すのにものすごく心血を注いで作っているのでそれと比べるとちょっと見劣りするかも…という気がする。


 それから個人的に見ていてとても大変だったのは、英語が訛っていることである。もちろん字幕なしで見たのだが、なんかしゃべっている英語が最近ようやく慣れてきたロンドンの英語とはだいぶ違っててよくわからないところがいっぱい…リヴァプール方言というのはイングランドの英語の中でもとくにRPとの違いが大きくてScouseとかいう名前もついている。母音が間延びした感じになるのでそれも聞き取りがキツい一因なのだが、一番困るのはthの音の摩擦がちょっと口の前方にずれて歯と歯の間じゃなくて歯と上唇の間になることである(つまり、fやvに近くなる)。あれはネイティヴスピーカーじゃないとかなり聞き取りが厳しい…



 昨日は夕方からBFIでキャサリン・ヘップバーンスペンサー・トレイシー祭りも見てきたのだが、今日は長くなったのでこの感想はまた明日にでも回すことにする。