アフリカ系アメリカ人キャストによる『熱いトタン屋根の上の猫』〜出来は素晴らしいんだけど、戯曲が猫的すぎる

 ウエストエンドのノヴェロ座でテネシー・ウィリアムズの『熱いトタン屋根の上の猫』を見てきた。このプロダクションの特徴は、話の中心となっているアメリカ南部のプランテーションを経営する家族を演じる役者が、全員アフリカ系アメリカ人になっているということである。


 それで、キャストはまあ大変なスター揃いだ。ビッグ・ダディを演じるのはダース・ヴェイダーことジェームズ・アール・ジョーンズだし、息子のブリックは私がずっと生で見てみたいと願っていたエイドリアン・レスターだ。ビッグ・ママはフェリシア・ラシャド(日本では馴染みがないのだがアメリカでは大スターらしい)、マギーはサナ・ラッサン(私は知らなかったのだが、アメリカではやはり名のある女優らしい)である。このキャストだとやっぱりアフリカンのお客さんにはものすごく魅力があるみたいで、いつもに比べるとロンドンの人口比に一割増しくらいでアフリカンのお客さんが多かったように思うし、ジェームズ・アール・ジョーンズフェリシア・ラシャドの登場場面では出てきただけで拍手が…客のノリもテネシー・ウィリアムズの現代劇というよりは看板役者総出演の歌舞伎みたいなノリだった。
 

 そしてこのスター揃いのキャストがさすがにみんな上手い(ちなみに、みんなものすごくちゃんとアメリカ南部英語でしゃべっていたので、非ネイティヴの私は聞き取りが一苦労…南部英語ってわかりにくいよね)。ジェームズ・アール・ジョーンズはとてもコミカルなビッグ・ダディだったし、フェリシア・ラシャドはなんというかメロドラマの古典的な「お母さん」だった。とくにビッグ・ダディがガンであることを知ってママが衝撃を受ける芝居には、全く観客一同息をのんだ。ダディとママが長男のグーパーよりも次男のブリックのほうをずっと気に入っているらしいことは芝居の最初から明らかなのだが、みんなこのことを明示的に口にはしない…ものの、ダディがガンだと知った瞬間、ママはグーパーのほうに顔を向けてこれ見よがしに"My only son"であるブリックを呼んでくれと言うである。この場面を見たお客さんは口々に"Oh〜〜〜!"と嘆息しまくっていたのだが、この場面はたった一言なのにものすごい衝撃だった。
 それからエイドリアン・レスターのブリックもとても良い。ブリックはフットボールの元花形選手だったのだが、クローゼットの同性愛者であり、ひそかに愛していたスキッパーが死んでしまった後は酒浸りになっている(このあたりの描き方は実に微妙で、ブリックは自分とスキッパーが同性愛関係にあったことは強く否定するのだが、否定すればするほどあやしくなる感じである)。こういう「過去の栄光を背負って落ちぶれた男」というのは、いわゆる「マスキュリニティ」の裏にものすごい繊細さを隠した役者さんでないとうまくこなすのが難しいと思うのだが、エイドリアン・レスターは時々コミカルに、時には色っぽくアル中演技をこなしていてとてもよくハマっていると思った(映画版ではポール・ニューマンがこの役だったのだが、つまりブリックの役にはちょっと屈折した色気が必要なんだと思う)。
 

 演出もとてもツボを抑えており、なんだか知らんがとにかく笑える!『熱いトタン屋根の上の猫』でこんなに笑いが起こるとは思わなかったのだが、全体的にブラックコメディみたいになっていて、爆笑したかと思ったら次の瞬間には凍り付くようなイヤーな場面が…客もこのアップダウンにみんなぐっと引き込まれちゃってて、最後はスタンディングオベーションになった。



 …それで、役者も演出もものすごく出来が良かったと思うのだが、それでも私は実はそこまで面白くなかった。で、それはたぶんそもそも戯曲が好きじゃないからだろうという結論に達した。そんなわけで、今回私がこのプロダクションを見て戯曲について好きじゃないと思った点をあげてみようと思う(プロダクション自体の出来はいいのに面白くなかったというからには、一体戯曲にどんな問題があるのかよく見えてくるはずだ)。


(1) 長すぎる。
 …のっけからアレだが、この芝居はとにかく長い。なぜか二回も途中で休憩があり、シェイクスピアチェーホフワーグナーかと思うほど長い。しかしながら、どういうわけだがシェイクスピアチェーホフに比べてずっと長いような感じがする。

 なんでかっていうと、シェイクスピアチェーホフっていうのは最低でも24時間ぶんくらい、長い場合は何十年とかいうスパンの話を二時間半〜四時間くらいにまとめる傾向があるので、客が客席で過ごす時間の数倍の早さで舞台上の時間が流れる。そのため、客の体感時間自体はそんなに長くなく、意外と舞台上でいろいろなことがバンバン起こっているような気がする(舞台上が大量の死体でいっぱいになるシェイクスピアはもちろんのこと、ロクに事件も起こらないチェーホフでも意外と時間の経過はスピーディである)。

 ところが、『熱いトタン屋根の上の猫』は、だいたい夕暮れから夜までの三時間くらいをそのまんまリアルタイムで見せる芝居なので、客の体感時間と舞台で流れる時間がほぼ同じである(このプロダクションでは背景がピンク色から黒にどんどん暗くなっていくことで時間の経過を示していた)。おそらくはこれが芝居が長いと感じる理由であろうと思う。客は三時間座ってて三時間分の話しか体得できないということになるので、なんだかダラダラしているように思えてくる。



(2) メロドラマっぽすぎる。
 これは純粋に好みの問題なのだと思うのだが、『熱いトタン屋根の上の猫』はあまりにもメロドラマっぽすぎるように思った。なんというか、いわゆるロラン・バルトがけなしている"clos"(closed、「閉じられた」)なブルジョワメロドラマ演劇で、家庭内の秘密が額縁舞台で暴かれるだけで、それ以外に外部から押し寄せてくるものもないし、内部から外に暴発的に破れていくようなものもない(シェイクスピアとかチェーホフだと、一人の人がしゃべってるだけなのになんかもう世界中がヤバくなっているような感じがする点がたいていひとつかふたつあるんだけど、そういうのがない。マギーやブリックが苦しいのはわかるのだが、二人ともとても個人的な人間である)。
 こういう閉鎖空間だけで展開する話できちっと落とし前をつけているという点では『熱いトタン屋根の上の猫』は非常に完成度の高い戯曲ではあるのだろうと思うし、このプロダクションではいろいろ笑いを取り入れてあまりにも閉鎖的にならないように気をつけていたと思うのだが、それでも芝居の醍醐味という点ではどうなんだろうと思うとこがあった。むしろこういう「閉鎖空間」型の作品というのは、四隅の枠があるテレビや映画で生きるものであって、演劇みたいな開放空間系の芸術には向いてないのではないかと思うのだが…



(3) マギーが猫的すぎる。
 …どんどん私的な好みに走っているのだが、とにかくこの芝居はヒロインのマギーがあまりにも猫属性の女すぎる。このプロダクションではサナ・ラッサンがなんかもう本当に猫的で…ああいうふうに情報を小出しにしつつ、既成事実を作ってどんどん相手を自分のしたいように動かそうとする対人関係テクニックというのは極めて猫的だと思うのだが、あれはなんか犬族の一員としては極めて抵抗がある。
 ちなみに、『欲望という名の電車』のブランチも猫女(不完全情報で勝負するタイプ)だと思うのだが、スタンリーは悪辣な犬(完全情報で勝負するタイプ)で、あれは猫が犬に敗北するという芝居だと思う。