想像しうる限り最大の贅沢、着物を着てロンドンで海老さまを鑑賞〜サドラーズ・ウェルズ『義経千本桜』

 昨晩は私の乏しい想像力で思いつくかぎり最も贅沢なことを行った。なんと、着物を着てロンドンのサドラーズ・ウェルズで市川海老蔵の『義経千本桜』を見たのである。


 「なんで着物を着ることにしたの?」と何人かの人からきかれたのだが、別に私(及び母)の頭の中では「せっかく海老蔵を初めて生で見るんだから着物で行こう」というのは実に自然な思考プロセスなんだけど…なんか我々の頭の中では、歌舞伎とかオペラとかバレエとか、華やかなスターが出てくる総合芸術は思い切りオシャレして行く贅沢なものであって、ストレートプレイとはちょっと違うらしい。こういう歌舞音曲の入る舞台はあらゆる感覚を贅沢に喜ばせるものなので、自分もオシャレしてスターの前に出ても恥ずかしくない格好にしないとなぁと気合いが入るようだ(母親に「どうせイギリス人は着物の着方とかわからんから、ちょっとくらいだらしなくてもごまかせるだろうさ」と言ったら「万一海老蔵に見られたらどうするんだ」と怒られた)。


 …しかしながら、私はいまだかつて一人で着物を着たことがなかったので、スカイプ中継で母にヴァーチャル着付けを教えてもらうことになった。実は昨日はクィアスタディーズと音楽に関する研究集会があってその聴講を予約してたのだが、途中で抜けてきて帰宅して三時くらいから母にスカイプ電話して着付け開始。しかしながらスカイプで中継すると右と左が逆になるので、最初誤って着物を左前に着てしまい、慌てて修正。四時過ぎになんとか着終わって母は寝たのだが、すっかりハイになった私はid:nikubetaさんとスカイプを使って話しつつ意味不明なUstream中継を開始。ところが中継がいきなりものすごいノイズで中断されたので、ハイなままサドラーズ・ウェルズへ向かう。


 最寄りのエンジェル駅についたのだが、一度しかサドラーズ・ウェルズに行ったことないので地図で方向を確認していたところ、人の良さそうなおっさんが近づいてきて、こっちが何も言ってないのに「劇場でしょ?あっちだよ」と教えてくれた。着物恐るべし…とはいえなんて察しのいいおっさんなんだろう。


 それで無事サドラーズ・ウェルズについて歌舞伎鑑賞とあいなったわけだが、日本人がかなりたくさんいて着物の人も二、三人はいた一方、イギリス人もかなり多かった(ただし、明らかにフランス語をしゃべっているお客さんもかなり見かけたし、ドイツ語や中国語も聞こえたけど)。


 
 とりあえず花道がすごくちゃんと設置されていたのに感動。客席の左側に通路を通して、両脇にライトもつけてある。ロンドンの劇場は花道を設置するにはやりにくい構造のところが多いように思うのだが(そもそもヨーロッパの大きなオペラやバレエの劇場は役者が通路を通ると想定してないと思う)、頑張ったようだ。



 『義経千本桜』は私も初めて見たのだが、義経は実は結構端役だそうで、とくに今回のロンドン公演では鳥居前・吉野山・四ノ切という、静御前と武者に化けた狐をメインにした場面しか上演されなかったので、義経の場面は意外に少なかった。この義経に仕えている狐をやるのが海老蔵なのだが、海老蔵が思ったよりもずっと動物っぽくてびっくりした。人間の姿をして最初に出てきた時からなんか仕草が人間っぽくなくて、やたら身軽でエネルギッシュだし、朗々としているわりには高い声も動物の鳴き声みたい。とくに最後に正体がわかってからはほんと動物にしか見えない。派手で荒々しい立ち回りと最後の親を慕う子狐の気持ちを表すところの哀切さがすごくよいコントラストになっていて、いい意味で後味がとてもセンチメンタルだった。
 ただ、私は歌舞伎については全然詳しくないので全く自信ないのだが、海老蔵が狐っぽく見えるのはたぶん私が日本人で子供の時から狐の出てくる昔話をきいており、何度か歌舞伎も見ているからであって、あれがヨーロッパ人にもすごく狐っぽく見えるのかについてはよくわからない。例えば玉三郎の鷺娘だったら、ちょっと演劇とかダンス見たことのある人なら文化的背景にかかわらず(タイトルと仕草だけで)どう見ても鳥っぽいと思うだろうとかなり自信を持って推測できるのだが(YouTubeとかでよく外国の人が玉三郎の動画を見て"Poor Birdie!"とか言ってるし)、海老蔵の狐っぽさはこっちの文化的補正がかなりあるような気もする。たまに台詞回しとかで「あれ、なんかちょっと違うかな?人間かな?」と思うところが何回かあったし…ただ、歌舞伎の役者さんというのは30代はまだまだ駆け出しらしいので(うちが見た時の玉三郎はもう60近くて、技術に関しては完璧なまでに練られていると言っていいと思う)、うちが少し疑問に思ったところは技術が成熟しきっていないところだったなのかもしれない。とはいえ噂の目力だけはやっぱりすごくて、セカンドサークルの安い席にいる人もやられるレベルだった。海老蔵の目はあれ以上老熟しなくてもいいと思う(あれ以上成熟したら客席を見ただけで人死にが出るぞ)。


 あと、びっくりしたのは中村芝雀静御前がすんごくお美しかったこと。義経を慕う静の優しいところと毅然としたところがうまくメリハリをつけて押し出されていて、吉野山の舞いのところでは不覚にも目に熱いものが…芝雀はだいぶ前にいっぺん見たことあるのだが、その時よりずっと綺麗になってるような気がした。ロンドンに住んでからまともな女装の麗人を見たことがない(?)せいで私の頭の中の基準が甘くなっているという可能性もあるが、やっぱり歌舞伎の役者さんは年をとるほど芸が良くなって舞台映えするというのは本当なのかも。



 なお、大向こうのかけ声がすんごくたくさんかかっていたのには本当に驚いた。初日だから協賛企業の関係とかで歌舞伎を見慣れている人も多かったのかもしれないとは思うのだが、誰も声かけないんなら女性ながら自分がかけようと思ってすんごく低い声で「ナリタヤ」とかいう練習をしていたのに(…アホみたい)、結局全然そういうことにはならなかった。かなり混んではいたけど一列にひとつくらいはまだ空席があったので(なんかうちの隣の二人は休憩時間の後いなくなってた…)、当日券ならまだ手に入るんじゃないのかな…