うわさのシェイクスピア外典、ニュープレイヤーズ座『二重の欺瞞』(Double Falsehood)

 ニュープレイヤーズ座でシェイクスピア外典として有名ないわくつきの作品『二重の欺瞞』(Double Falsehood)を見てきた。

 この戯曲は18世紀の初めにルイス・ティバルド(Lewis Theobald。BBCはティバルドと読んでいるらしいのだが、同じ綴りでシオボルドと読む人もたくさんいるので正確な音の表記は不明)という学者がシェイクスピアとジョン・フレッチャー作の失われた戯曲『カルデニオ』(これについてはどうやらそういう名前の戯曲があったらしいという記録は残っているのだが不明点多し、作者が本当にシェイクスピアフレッチャーなのかもあまりよくわかっていない)の翻案であるとして初演したものである。ティボルドは写本から文字起こしして校訂したと言っているのだが、このもとの本が失われてしまったため非常に来歴があやしい(完全なティボルドの捏造という噂もあるし、他の作家の写本をシェイクスピア作と思いこんだという説も)。それでも去年アーデン版(シェイクスピア戯曲のシリーズの中でも非常に権威ある版)にシェイクスピア正典として入ったので、研究者の間では大議論が巻き起こった。この戯曲は今年の夏にRSCによりストラットフォード・アポン・エイヴォンで上演される予定なのだが、この公演はロンドンのオフウェストエンドで別のプロダクションが企画したもの。とりあえず学者も演劇をやるほうもこの戯曲にシェイクスピアの手が入っていると考えている人はそんなに多くはなく、劇評なんかを見てみてもみんな話半分に見に行っているようである。

 …で、とりあえず私の感想を言うと、これだけつまらん話をよくこれだけちゃんとした上演にしたなぁと製作陣の努力に感心した。戯曲を読んでいるかぎりでは、設定も何かヘンだし台詞も割合貧相で、話はイギリス・ルネサンスのヒット作品からウケそうな要素をテキトーにつなぎあわせただけみたいな感じでちっとも面白くないのだが(まあでもこれよりひどい初期近代の芝居はたくさんあるからこれでもマシなほうかも)、役者の頑張りと演出の工夫で結構ドラマチックな上演になっていたのは感心する。ヒロイン・ヴィオランテ役の女優さんが良かったのが勝因かな。

 あらすじとしては、公爵の次男エンリケが自分になびかない美しい庶民階級の乙女ヴィオランテを強姦し、さらには友人ジュリオの恋人レオノーラを奪って無理矢理結婚しようとするのをジュリオとエンリケの兄ロデリックが阻止しようとするというもの。最後はジュリオがレオノーラと結婚し、ヴィオランテがエンリケと結婚して終わる。レイプ犯との結婚をもってハッピーエンドとは、いくらイギリス・ルネサンスの価値観にのっとった話だとはいえ、ひどい話である。

 しかしながらこの上演ではヴィオランテがかつては愛していたが今では憎しみの対象となっているエンリケへの復讐に燃える女性(現代風に言うと、デートレイプの犯人に激しい憎悪と割り切れない複雑な未練を抱いている女性)で、結婚は強姦に対する復讐であると位置づけられていたので、それでまあなんとか見れる内容になったのだと思う。汚された名誉の代償としてエンリケに自分との結婚を求めるヴィオランテは現代人には理解しがたいところがあるが、階級差別(身分の低い女性との結婚はある意味エンリケに対する罰になる)と性差別(女性は処女でなくなった時の相手と結婚せねばならない)が激しく、今とは名誉の概念がかなり違っているイギリス・ルネサンスの時代ならこの内容で十分復讐になったんだろうと思う。最後、執拗にエンリケの手を握ろうとするヴィオランテをエンリケが振り切って、それをヴィオランテが凍るような眼差しで見つめるところはかなり迫力があった。復讐は成ったが心は満たされていないということがよく表れている。初期近代の上演でも、うまい女形が復讐心を剥き出しに暗い情念をたぎらせるような演出でやればかなりウケたかもという気がする。
 
 と、いうことで、思ったよりも断然複雑で興味深い芝居になっていたと思うのだが、いかんせん台詞の広がりのなさとコミカルな息抜き場面の少なさはカバーしきれないかなぁ…シェイクスピアの芝居には必ず一箇所「おっ」と思うような広がりのある台詞があるし、あと悲惨な主筋の脇には面白おかしい道化の見せ場が用意されているのだが、この作品には一切そういうところがない(これは他のお客さんもそう思ったようで、劇評とかでも指摘されてる)。

 あと私がシェイクスピアっぽくないと思ったのは、性暴力の扱いと男装の扱いである。シェイクスピアの作品では強姦犯は社会全体に対する罪悪として男の世界の秩序によって罰されると思うのだが(『ルークリース』では暴君に対する反乱、『ヴェローナの二紳士』ではすんでのところで男が助けに入り、『タイタス・アンドロニカス』では父が娘のため血の復讐をする)、『二重の欺瞞』では強姦犯が相手の女性の情念の力によってドメスティックな領域で罰されるのが何か雰囲気違うなと思った(シェイクスピアの世界で女の力により罰されるのは、性暴力じゃなく男の心変わりだと思う)。このヴィオランテみたいな「強姦犯への復讐に燃える烈女」って、シェイクスピアの作品にはあまり出てこないよねぇ…もっと従順で大人しい女性か、あるいはとても陽気で中性的な色気があって頭が切れるか、どっちかじゃない?

 あと、男装の扱いは明らかにシェイクスピアっぽくない。シェイクスピアの正典に入っている作品では、女性が劇中で男装すればそれはどんなに女の子っぽい男の子でも男の子で通用するものであり、自分からバラす気にならないと最後まで男とバレない、それがお約束である。しかしながら『二重の欺瞞』ではヴィオランテの男装がエロオヤジにバレるという場面があるんだよね…シェイクスピアはこういう舞台のお約束を明白に破るような男装の使い方をしないと思うんだけど、どう思う?

 …そんなわけで私はこの芝居にシェイクスピアの手が入っているとはあまり思えなかった。完全にティバルドの捏造とは思えないのだが、ティバルドが来歴のあやしい初期近代の写本を勝手に校訂してシェイクスピアのものにしちゃったんじゃないかね?シェイクスピアっぽいストーリーの要素も似た感じの語法もいっぱいあるのだが、どれも完全にシェイクスピア的というわけではなく、こういうつぎはぎみたいなやり方ってデビューしたての若手作家が試行錯誤する時に出てきやすいものではないかと思った。シェイクスピアは結構な人気作家だったので若手の演劇人にも尊敬されていただろうし(ジョン・フォードとかの作品はシェイクスピアの影響が著しい)、フレッチャーなんかは共作もしているので、ひょっとしたらシェイクスピアを師と仰いで真似ていたのかもしれない。フレッチャーの若書きの作品だと言われればそうかもと思うし、デッカーとかマッシンジャーとかミドルトン(最初に読んだ時はミドルトンの失敗作かと思った)でもそうかなという気がするのだが、シェイクスピアの手は入ってないんじゃないかな…(まあ、初期近代の芝居はいろいろな人が関わって最終的な文責が誰にあるかわからないことも多いので、完全にシェイクスピアが無関係とも言えないが)。