グローブ座『フォースタス博士』〜アウシュビッツのあとマーロウ版フォースタスは可能か?

 グローブ座でマーロウの『フォースタス博士』を見てきた。

 この間のローズ座の上演とは全然違う、舞台装置もたくさん使った大がかりな上演。視覚効果を派手に使ったところはいいと思うのだが、とにかく長い!

 とりあえずこの戯曲はテキストが二種類あってどれを上演台本にするかが問題なので、おそらくこのプロダクションはフルテキストヴァージョンでやったんだと思うのだが、はっきりいって長すぎる!ローズ座では一時間半、歌が入って恋愛の挿話もあるオペラの『ファウストの劫罰』でも2時間40分で終わったのに、グローブ座のプロダクションは3時間!正直、ファウスト博士が傲慢の罪を犯したあげく地獄に堕ちるだけの話で3時間はきつい。もっとカットしてテンポよく演出すべきだと思った。役者(とくにフォースタスとメフィスト)の演技はいいし、演出もたまにちょっとわざとらしいところがある以外はだいたいいいと思うのだが、後半になると長さのせいでこのわざとらしさがちょっと鼻についてくる感じがする。どうせなら二時間くらいでさらに派手な演出でやったほうがいいのではと思った。


 …あとねー、ローズ、グローブと立て続けにマーロウ版を見て、ベルリオーズ版のオペラも見てわかったのだが、どうやら私はマーロウ版の『フォースタス博士』がそんなに好きではないようだ。というのも、フォースタスが犯した罪というのが、私も含めて現代人にはたいして大罪に見えないからである。なんか「アウシュヴィッツのあと詩は可能か」的な話になってしまって恐縮なのだが、フォースタスの罪というのは知的好奇心に起因する傲慢の罪であって、非常にキリスト教的原罪の価値観に根ざしたものである(アダムとイヴは知識欲ゆえ堕落し、ルシファーは傲慢によって悪魔となった)。ところが現代人は知識欲は悪いことだとは思っていないし(ニーチェが『フォースタス博士』を見たらどう思うかね?)、フォースタスの罪というのは殺人とか強姦とかではなく単に人をびびらせるとか他人の知らないことを貪欲に研究するとかその程度。ナチスやらルワンダやら旧ユーゴスラビアで凄まじい虐殺を見た現代人にとってはフォースタスの罪なんか全然たいしたことないように思えるし、地獄の悪魔もそこまで怖くない(たぶんこの点においてテリー・ギリアムのオペラの演出は非常に正しかったんだと思う。悪魔はナチスであり、ファウストナチスから愛する女性を救うために悪魔に魂を売った)。マーロウは他人を挑発するような諷刺を好んだ劇作家であったと思うので、おそらくフォースタス博士は単なる道徳劇じゃなく、フォースタスの罪を魅力的に描くことで客を惹きつけようとする作品であったのだと思うのだが、現代人にとってフォースタスがやってるようなことはそこまで珍しいことではないのでたいして非日常的な魅力があるわけでもない。


 …そういうわけで、『フォースタス博士』はふつうに演出すると単なる反知性主義的道徳劇になりかねず、よっぽどの工夫をしなければただのつまらん古い芝居になってしまうのではと思う。マーロウの作品なら、自らの弱さに翻弄される権力者と肉体を武器にのしあがる男を描いた『エドワード三世』とか、あるいは『タンバレイン大王』のほうが現代の観客にはウケがいいんじゃないのかなぁ…