ナターシャ・ウォルター、Living Dolls: The Return of Sexism(『生き人形――性差別の帰還』)

 ナターシャ・ウォルター(Natasha Walter)のLiving Dolls: The Return of Sexism(『生き人形――性差別の帰還』), Virago, 2010を読んだ。

 著者のナターシャ・ウォルターは筋金入りのフェミニストで、The New Feminismの著者であり、Women for Refugee Womenのディレクターである。

 この本はフェミニズムに対するバックラッシュ批判本で、全体としての主な主張は女性がセクシーさとか伝統的な女性らしさを女性に力を与えるものとして無批判に受け入れている昨今の風潮の批判(第一部)と、それの背景としての生物学的決定論批判(第二部)である。この間レビューしたエーリアル・レヴィのFemale Chauvinist Pigsのイギリス版という感じなのだが、この本はレヴィの本に比べると出来のいいところと悪いところの差が激しい気がする。


 まず出来のよくないところから指摘すると、とりあえず著者のウォルターはアクティヴィストなので政治とか教育には非常に強いらしいが、芸術作品とか文化現象の分析についてはあまり得意でないようだということである。まあ私が演劇史をやってるしこのあたりはもろにかぶった世代でいろいろ批評とかもたくさん読んでいるからあらが目につくというのもあると思うが、第一部の『セックス・アンド・ザ・シティ』や『Lの世界』、バーレスク・リヴァイヴァル、ポールダンスなんかをラップダンスのクラブやら娼婦をことさらに持ち上げる文学作品の流行と一緒にして女性の性を過剰に重視する風潮の表れだ的な方向に持っていっているのは、「いやいやそれについてはもっといろいろ違う分析が既に出ているだろ…クィア批評は?」とか、「これ、作品の社会的コンテクストをちゃんとふまえてんの?」とか、「分析する対象としての観客のサンプルが少なすぎだろ」っていうところが多くてあまり信用できないと思った。性教育や科学についてはいろんなところにがっちり取材に行って書いているのに、文化現象についてはわりあいインタビュー調査なんかのサンプルが少なく本人も気合いが入ってないのではと疑ってしまう。とくにカルラ・ブルーニをデイリーメイルとかが「女性らしさの完璧な見本」「物言わぬ美女」と描写してイギリスの「女性らしくない」政治家と対置させてる(212-213)、っていう話は「いやそれたんにメイルがバカなだけじゃない?フランス人でブルーニを『女性らしさの完璧な見本』『物言わぬ美女』とか思ってるやついるのか?」と突っ込んでしまった。


 しかしながら政治とか教育関係の調査は大変行き届いている。第一部で一番興味深いのは性教育の話で、とにかくセックス偏重の風潮があるため十代の少女が周りから早く性体験をしなければという圧力を受け、まともな人間関係が築けるほど精神が成熟しないうちにセックスするようになってしまう(そういう女の子はセックスを楽しいものとは考えていない)というところは実に深刻な問題だと思った。イギリスは未成年の妊娠率もあまりよろしくないし、人間関係を含めた性教育が重要だというのは納得できる。たくさんの少女にインタビューしてかなり気が滅入るような話(激しい同調圧力とか、セクシーでかわいい格好をしない女の子へのいじめとか)をとってきているところもずしんとくる。しかしながらウォルターは一対一の永続的でモノガマスな性関係を成熟したよいものと考えているようで、そのへんどうなのと思っているフェミニストクィア活動家は多いと思うし、まあ全面的にウォルターの主張に賛同できるわけではない。


 おそらくこの本で一番気合いが入っているのは第二部で、ここは最近の科学がいかに(断定的に話せるだけの十分な研究結果はないのに)性差を強調し、それをジャーナリズムが単純化してセンセーショナルに伝えているかということを論じている。主な批判対象はスティーヴン&スーザン・ピンカー、サイモン・バロン=コーエン、あとローレンス・サマーズなんかがとりあげられ、こうした陣営の批判者として登場しているのはエリザベス・スペルキやデボラ・キャメロンなんかである。ウォルターによると、このところ影響力のある科学者たちは、女性のほうが男性より共感能力とか言語スキルがある一方男性のほうがパターンやシステム、空間の認識に長けており、これは脳のつくりやホルモンなどの違いに由来するものだというような学説を唱えており、男女の職業選択や学校の成績なんかの違いはこういうもので説明できるかもしれないと考えている人もいる。また、メディアもまるでそれが確定事項であるかのように取り上げたり、あるいはこういう性差を強調する科学者たちを科学のタブーに挑んだ勇敢な人々扱いしたりしている。しかしながらこういう性差を強調する学者たちの研究の手法や結果に疑問を抱いている同業者たちも多くおり、似たような手法で行った実験で全然違う結果が出ていることもよくあるということをウォルターはかなり一般向けにわかりやすく述べている。また、こういう海のものとも山のものともつかない研究の結果が決定的なものとしてメディアに引用され、既存の性差別を強化してしまうことをウォルターは危惧している。

 しかしながらウォルターの引用箇所によると、性差を強調している主張している学者たちは自分たちがタブーを破る勇敢な学者だと思っているようだが、その実19世紀の性差別的・人種差別的なバイアスに基づいた科学とそう変わらないように見えるあたりがなんか反逆者気取りお疲れさんって感じだなぁ…自分では反逆者だと思っていてもその実は単なる復古主義者だったりすることはよくある。あと、あいかわらず科学技術の世界では性差別が激しく、男性の研究者が女性の研究者をバカにしたり、女性研究者が女性というだけで不利益を蒙ることも結構あると指摘されており、これは早急に改善しないとそういう世界から出て来た研究結果そのものが疑われることになりかねないと思った。学問の信用を保つためにも、学問の世界における性差別や人種差別を初めとするいろいろな差別は全力で撤廃すべきである。


 なお、科学における性差を強調する傾向について日本語で読めるものとしては「通俗的『男脳・女脳』言説がはらむ問題」(pdf注意)と、あと書籍では『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』かな?