シェイクスピア別人説の映画化『作者不詳』(Anonymous)〜いやいやひどいエメリッヒだった

 シェイクスピア別人説をテーマにしたローランド・エメリッヒ監督の映画『作者不評』(Anonymous)を見てきた。一言で言うとまあ全然ダメだった。

 シェイクスピア別人説になじみのない人もいるかもしれんと思うから一応簡単に説明しておくと、世の中にはストラットフォード・アポン・エイヴォン出身のウィリアム・シェイクスピアが『ハムレット』とか『ロミオとジュリエット』を書いたんじゃない、本当は別の人がシェイクスピアの名前を使って書いていたんだ、と主張している人が結構いる。こういう主張のバックには、ストラットフォードのウィリアム・シェイクスピアは田舎育ちで全然体系的な教育を受けてなかったのにあんな貴族とかがたくさん出てくる複雑な作品が書けたなんておかしいという考えと、シェイクスピア本人の生涯に関する史料があまり残っておらず、若い頃どこで何をしていたのかとかに不審な点がある、ということがある(というか17世紀の作家の生涯に関する史料ってあまり残ってないことが多いのだが)。まあしかしながらシェイクスピアという人の身元に関する史料は少ないとはいえ全然残っていないわけではなく、残っている史料からだけでもどうやらシェイクスピアが一連の作品を書いたらしいことはわかるので、ふつうの研究者は演劇ファンはストラットフォードのシェイクスピアが『ハムレット』とかを書いたんだと信じているし(シェイクスピアの身元にあやしいところはないと考えている人はストラットフォード派と呼ばれている)、こういう別人説はほとんど相手にされてない。しかしながらイギリスは物好きの国なのでシェイクスピアは別人だ!という話を信じていたり、あるいはネタとして面白がっている人が結構おり、こういう動きはアメリカとかにもある。
 最近一番人気のある「ホンモノのシェイクスピア」候補はオクスフォード伯エドワード・ド・ヴィアで、この人が『作者不詳』の主人公なのだが、この人がシェイクスピアの作品の本当のライターだと信じている人たちはオクスフォード派の呼ばれている。昔はフランシス・ベーコンが陰のライター一番人気だったが最近は人気ない(なお、出版時や再演時に同僚や後輩の作家が元のシェイクスピアのテキストに書き加えたり削ったりしたのではないか、あるいは商業劇場でたくさんの作品を生産するにあたって部分的に他の作家と共作していたのにそのあたりがうやむやになっているのではないか、という研究も最近たくさんあるのだが、これは別人説とは全然違うものである)。

 で、とりあえずこの『作者不詳』は企画段階で既に「シェイクスピア別人説なんていうニセ歴史を映画にするなんて!」ということで英文学界から顰蹙を買っていたのだが、それ以前に私が一番問題だと思ったのはローランド・エメリッヒが監督であるということである。実は私はエメリッヒの映画を一本も見たことないというかできる限り避けて通ってきたのだが、この人は映画ファンの間では悪名高い監督である。フィルモグラフィは『インデペンデンス・デイ』『GODZILLA』『パトリオット』『デイ・アフター・トゥモロー』『紀元前1万年『2012』…どいつもこいつもあまりにも評判が悪いので(『パトリオット』だけはマシな評価みたいだけど)見る気がおきないし、なんかあらすじを読んでいるだけでつまんない脚本をビッグバジェットで無難に撮る人なんだろうなーとしか思えない。しかもこの人は『パトリオット』(独立戦争もの)を撮った時にアメリカの軍人を美化しすぎだと叩かれており(主にイギリスで強く批判されたようだが、アメリカでもスパイク・リーを初めとするいろいろな人々から考証がおかしいと批判されたらしい)、『2012』や『紀元前1万年』はニセ歴史ものである。こいつがシェイクスピア別人説の映画を撮るなんて全くいい予感がしない。例えばスパイク・ジョーンズシェイクスピア別人説の映画を撮ります…とか言われたらそれはなんかたぶんネタをネタとして楽しむ奇妙奇天烈なファンタジーになりそうだから期待すると思うが(スランプに陥っているシェイクスピアの意識をとっかえひっかえ他のライターが乗っ取ろうとするとか)、監督がエメリッヒでは最初っから絶対ダメだろとしか思えない。

 そんなわけで今日『作者不詳』を見に行ってきたわけだが、ものすごくひどい映画を期待して行ったところまあ思ったほどでもなかったので少し拍子抜けした感じかな…とりあえず、CGを使ってチューダー風の街並みを非常によく再現しているところはいいし、あとエドワード・ド・ヴィアを演じるリス・エヴァンズ(『ノッティング・ヒルの恋人』のヘンなルームメイト役のウェールズ人)がとても良かった。普段の映画ではとぼけたおっさんなのに、この映画では何かものすごいカリスマ的インテリイケメン紳士のように見える。

 しかしながら、予想通り脚本と演出はひどかった。日本公開されるはずだが一応あらすじを書いておくと(ネタバレありなので知りたくない人は見ないでください)、舞台は後継者問題がやかましくなってきたエリザベス一世治世末期。エドワード・ド・ヴィアはサウサンプトン伯ヘンリー・リズリーの支援者であり、2人はエリザベス一世の不義の子であるエセックス伯ロバート・デヴルーがスコットランド王ジェームズにかわって女王の後継者になれるよう画策している。ジェームズを後継者にさせないためには親ジェームズ派のセシル一族を追い落とすことが重要だと思ったエドワードは、芝居を使ってプロパガンダを行うことを思いつき、街の人気作家ベン・ジョンソンを扇動罪の嫌疑から救うかわりに自分の芝居をローズ座で匿名で上演するよう命令。そこで上演した『ヘンリー五世』は大ヒット作となるが、ひょんなことから飲んだくれの役者、ウィリアム・シェイクスピアが『ヘンリー五世』の作者として名乗り出たため話は混乱。映画がすすむうちにだんだんエドワードとエリザベス一世は昔愛人関係にあってどうやらサウサンプトン伯はその隠し子だったらしいこと、またまたエドワード自身が実はエリザベスの隠し子で知らないうちに近親相姦していたらしいこととかがわかって話が信じられないほど混乱しまくったあげく、エセックスは反乱で処刑、エドワード死亡、ベン・ジョンソンだけが秘密の守り手としてシェイクスピア名義でエドワードの作品を発表し続ける…とかなんとか。

 まあなんか脚本も演出もとにかく混乱している。行き当たりばったりのフラッシュバックがやたら多く、一応話は追えるんだけど著しく効果を殺ぐ編集だと思った(男女の愛憎を軸に時系列をバラバラにするなら『(500)日のサマー』を見習おうね)。それから最後の怒濤の近親相姦ラッシュは何なんだ…一応、プリンス・チューダー・セオリーというオクスフォード派の分派の仮説を元にしているらしいのだが、じゃあエドワードの父親は誰なんだとかエセックスの父親は誰なんだとかそのへん全く回収しないでとっちらかって終わる。

 とくにひどいのがエドワードが匿名で芝居をかけはじめるあたりの描写である。プロパガンダのために自分の芝居を匿名でローズ座にかけることを思いつく…ということになっているのだが、プロパガンダが目的のくせに長年こっそり書きためてきた芝居(『ロミオとジュリエット』とか、プロパガンダには全然関係なさそう)をかけさせるとかちょっと行動の動機がよくわからない。それにこの映画はシェイクスピアっていうかエドワードの作品を「イギリスの至宝」的に描写してるのに、『リチャード三世』とかをエドワードが書いた動機は純粋なプロパガンダのためってことになってるんだけどそれでいいのか…?全体的に演出がとっちらかってるせいで、一体エドワードは書きたいから書いたのか、プロパガンダ目的で書いたのか、あるいはこっそり書いたものをプロパガンダ目的で上演させているうちに客のために書くこと自体の魅力に取り憑かれたのか、そのへんわけのわからないことになっている。

 あとまあもうひとつ嫌だなと思うのが、『ハムレット』やらなんやらを書いた人を田舎出身の市井の劇作家ではなくインテリ貴族、ひいては女王の庶子にし、さらにその作品をものすごく持ち上げることで「シェイクスピア作品のイギリスの至宝としての正統性」みたいなものを高めようとする意図が透けてみえるところ。シェイクスピア別人説にはかなり階級差別のにおいがするものが多いのでそこが私は気に入らないのだが、この作品はドイツ人が監督してかなりアメリカのスタッフを使って作ってるくせにそういう階級差別な感じがやたら出てる。ウィリアム・シェイクスピア役の人はイカれた文盲ののんだくれみたいに描かれてるし、爵位が低いセシル一族が悪役なのに、エドワードその他家柄のいい貴族の連中はみんな立派な人みたいに描かれてる。

 最後に歴史的な正確さについてちょっと触れておこうと思う。私は歴史フィクションはフィクションと割り切って見ることを主張しているので時代考証についてはあまりうるさく言うのは野暮だと思うし、この映画は根本的に歴史的事実とか無視しまくっているのでそのへんツッコミを入れるのは意味ない気もするし、既にジェイムズ・シャピロ(←シェイクスピア研究の世界ではかなりの大物、今回の映画について激怒している学者のひとり)他いろんな人たちが時代考証のおかしさにツッコミを入れてて英語版ウィキペディアリストになってるので私が言う必要もあんまりないように思う…のだが、そうは言っても「いやいやそれはねーだろ!」みたいなところが何カ所かあったので触れておきたい。


エドワードのデビュー作が『ヘンリー五世』ってことになってるんだけどそれ絶対おかしいから!『ヘンリー五世』は『ヘンリー四世』第一部・第二部の続編で、たぶん『ヘンリー四世』二部作があたってなかったら『ヘンリー五世』書かれてないから!(←個人的には『ヘンリー四世』のフォルスタッフは私のお気に入りキャラなのでフォルスタッフ抹殺はムカついた。なお、同時代の記録によると『ヘンリー四世』二部作はどうやらかなりヒットしたらしい)
・『夏の夜の夢』が9歳のエドワードによって書かれて宮廷で初演されたことになってるけど、一応ヘンリー八世の時代から宮廷喜劇みたいなのは上演されてたにせよ、ロマンティックコメディというジャンルが確立したのはせいぜい1580年代にジョン・リリーが売れっ子になってから以降だと思うので1560年くらいにこういう恋愛喜劇が上演っておかしいだろ…と思ったら、スティーヴン・マーシュ(Marche,ひょっとしたらマーチかも)というライターが「まるで1961年にジェイZがこっそり『ブループリント』を書いてたっていうくらいおかしい」と喩えていてこれはいい喩えだと思った。16〜17世紀の演劇は現代のポップスなみに流行廃りが激しい世界で新しいジャンルができたり時代遅れになったりしてるのに、こういう描写はかなりおかしいっていうか興ざめである。
・史実ではエセックス伯はジェームズが後継者になることを支持していたはず。エリザベスの後継者候補として名があげられていたのはエセックスよりもアーベラ・スチュアートだろう。
エセックス伯の反乱の時に上演されていたのは『リチャード二世』であって『リチャード三世』ではない。これは有名な話なのでここまで改変するかと驚いた。あと『リチャード三世』のリチャードの役柄がなんかみんなの憎悪を一心に受ける醜い身体障害者として演じられたことにされているが、この役柄はリチャード・バーベッジによる初演時から魅力的でかなりセクシーな悪役として演じられていたらしい(真偽不明だがこの役を演じたバーベッジに追っかけがついたという噂が流れたらしいし、再演時には若くてかっこいい役者がこの役を割り振られた形跡がある)。身体障害があるから醜いみたいな演出にするのは実に不愉快だし、本当に芝居見たことあるのかって思っちゃう。
エドワードが宮廷を退いて以来、宮廷での芝居上演がなくなったように描かれていたが、それはウソ。残っている記録はジェームズ一世(六世)の治世より少ないものの、エリザベス一世の時代にはコンスタントに宮廷上演が行われていた。一般的にチューダー朝スチュアート朝の宮廷では芝居の上演はかなり盛ん。
・グローブ座(ローズ座かもしれないが、ローズ座は燃えたという記録はないのでたぶん違う)が1600年代の初めに燃えちゃったことになっているのだが、本当にグローブ座が燃えたのは1613年、『ヘンリー八世』の上演時に用いた大砲から出火したため。というか、いくら官憲だってあんな人口稠密地帯の建物に火なんかかけないだろ…それともそんな無謀なことをしたっていう記録があるのか?
・『マクベス』がなんとエリザベスの治世に初演されたことになっているが、明白なスチュアート朝への言及とジェームズ一世(六世)の宮廷の趣味である魔女のモチーフを取り込んでいる『マクベス』がエリザベス朝に(しかも、反ジェームズの勢力によって)上演されたわけはない。

 …いくつか指摘するだけにしようと思ってたけど結構多くなっちゃった。とにかく時代考証についてはツッコミ所満載です!というか、歴史的に正しい描写がほとんどない、と言ったほうがいいかもしれない。というか歴史映画における時代考証って筋に従属するためで面白くするために時代考証を無視するんならありだと思うんだけど、この映画は別に時代考証を無視したせいで面白くなってるとかいうことはない…んだよね。