オキュパイ運動はどういう表象に頼っているか?〜ゾンビ、反逆者、魔法使い

 昨日の学生デモに参加して思ったのだが、オキュパイ運動はいろいろな文化をバックボーンとしていて、参加者は自分がふさわしいと思った文化表象に託して政治的主張を広めようとしている。そんなわけで今日はオキュパイ運動(及びそれに先だって行われていた反格差運動)の依拠する表象は何なのかについてちょっと記述してみたいのだが、うちがあまり得意じゃない分野のものも多いので分析はなしで記述だけになっちゃうかも。それにサンプルが昨日のデモと新聞記事だけなのでかなり偏ってる。

 とりあえずオキュパイ運動を記述する前に押さえておくべきこととしては、ある政治的主張がメディアを通して広まる時、単純に主張をどういうふうに言語化しているか、というだけじゃなく一体その運動はどういう文化をバックボーンにしていて、言葉以外のどういう表現を通してそのメッセージを伝えようとしているのか、どういう文化と自分を結びつけたいのか、というのが重要になるということがある。西洋絵画で神やら聖人やらの権威を王族・貴族が借りようとしていたなんていうのはよく言われることだが、少し新しい例だと例えばポーランド人民共和国で1989年に行われた初めての自由選挙(部分的実施だったらしいが)で「連帯」が使用したポスター(こちら)とかがあげられる。これは1952年のアメリカ映画『真昼の決闘』ポーランド版のポスターのパロディで、保安官ゲーリー・クーパーに連帯のロゴをかぶせたものであった。このポスターの一筋縄ではいかない経緯についてはワレサ議長のインタビュー抜粋が英語版ウィキペディアにのっているが、これは一人になっても正義と自由のため戦う西部の保安官ゲーリー・クーパーポーランドに到来するべき民主主義のイメージを重ねたものである一方、おそらくはポーランド人が西部劇のカウボーイに対して一般的に良いイメージを抱いていたことを利用している(ポーランド史については詳しくないのでよくわからないが、ワレサのインタビューを読むとどうやらそうらしい)。ネガティブなイメージを反対者にかぶせるというのも行われていて、思いつくとこだと1983年にレーガン政権が提示した「戦略防衛構想」が「スター・ウォーズ計画」(スペースオペラなみに壮大で滑稽だという含みがある)として論敵から攻撃されたこととかかな。
 

 そんなわけでオキュパイ運動の参加者たちも自分の政治的主張を表現するのにふさわしいと思った表象を選び、それをまとって政治の場に出て来ている。うちが昨日のデモと今までの新聞記事で観察したところ、目だった表象は3つくらいだと思う。


(1)ゾンビ
 昨日は見かけなかったが、ゾンビの格好でプロテストする人はかなりいるらしい。
Occupy Wall Street ‘zombies’ keep protest alive
“Zombies” Occupy Wall Street
 オキュパイ運動に限らず、最近の世相はゾンビなしでは回らない。去年のイギリスの選挙の時には政治諷刺をかねたゾンビの権利保護協会が活動してた。

 あと、今年の夏のロンドン暴動で、人っ子ひとりいなくなったプチ戒厳令下のロンドンを「『28日後』みたいだ…」「ゾンビの襲撃みたいだ」と喩える人がかなりいたし、私も実際そう思った。

 で、これについてはブライトンに3000人のゾンビが出現した時(これはオキュパイ運動とは関係なかったようだが)にBBCが書いた記事(こちら)が結構面白い分析を提供している。ニック・ピアースという研究者が、今の若い世代には職もなく将来への希望がないため、「生きる死者」(living dead)であるゾンビと自分たちを重ね合わせやすいんだろうというようなことを言っている。つまりゾンビとしてプロテストする若者たちは自分たちがゾンビにされたと思ってるということだろう。


(2)ガイ・フォークス(『V・フォー・ヴェンデッタ』)
 ガイ・フォークスは1605年にイングランド議会を爆破しようとして失敗したカトリックの反体制派で、今でもイングランドでは11/5に謀反人ガイ・フォークスの陰謀失敗を祝うガイ・フォークス・ナイトというアングリカンの火祭りがある。
 ところがこのガイ・フォークスには圧政に抵抗する反体制活動家という側面があり、『V・フォー・ヴェンデッタ』というウォシャウスキー兄弟の映画ではガイ・フォークスのマスクが反体制の象徴となっている。

 で、昨日撮った写真にもうつっていたが、この映画に出て来たガイ・フォークスのマスクはオキュパイ運動参加者に大人気である。それ以前からいろいろこれを反体制派がつけることはあったらしいが、オキュパイ運動でかなりメジャーになった。

Guy Fawkes mask inspires Occupy protests around the world
Occupy's V for Vendetta protest mask is a symbol of festive citizenship
 原作のコミックを読んでないのでこのあたりはあまり詳しく述べる資格がないのだが、とりあえずこの映画を見てた人がこんなにいるんだということに私は驚いたな…『マトリックス』三部作のほうがポピュラーカルチャーへの影響度は上だと思っていたのだが、あれはやたらポストモダン的(というかプレモダン的?)で現実に社会変革を訴える時は全く素材にならないんだと思うんだけど、一方、『V・フォー・ヴェンデッタ』は革命を賛美する話なので非常に参照しやすい。あれのラストシーンは無名の人々が呼びかけに応じてマスクをつけてやってくるみたいな感じで、自分たちは力を奪われた多数派(99%)なのだ、と主張しているオキュパイ運動には非常にしっくりくる物語である。『V・フォー・ヴェンデッタ』は『マトリックス』よりは出来が悪い気がしたのだが、実は意外に『マトリックス』より先を見通した映画だったのかな…見てない人は今すぐ見たほうがいいかもしれん気がする。


(3)ハリー・ポッター
 これについての報道はあまり見かけないしひょっとしたらロンドンだけの局地的な現象かもしれないと思うのだが、ロンドンではハリー・ポッターの格好でプロテストした人がいたらしい。あと、去年の学生デモでも昨日のデモでもこの「ダンブルドアならどうする」プラカードを見かけた。

 ソースがウェブだけなので確かなことは言えないのだが、この文句はどうやら同性婚のプロテストでよく使用されていたものの変形らしい(ダンブルドア先生はゲイなので)。LGBT関係の人権運動をやってる人とオキュパイ運動の参加者がある程度かぶっているということなのか、それともハリー・ポッターオタクはどこにでもいるってことなのかな…
 しかしながらよく考えると『ハリー・ポッター』って政府の横暴で政治的にリベラルな学長が退任させられそうになり、学校自治を求めて学生が運動する(その背後には巨悪の存在が…)っていう話なので、意外と政治的な話である気がする。Harry Potter Allianceとかいうファンの人権団体(よくわからないのだが、ネオペイガン系かね?)まであるらしい。そう考えると、オキュパイ運動でもとくに学生デモみたいな「学問の自由」を訴える運動には利用しやすい。大ヒット作でみんな見てるし。


 こうして並べてみるとどうやらオキュパイ運動やそれに類する反格差運動の参加者はゾンビやウォシャウスキー兄弟(あるいはアラン・ムーア?)やハリー・ポッターが好きで、こういうものが表現している価値観が自分たちの政治主張にふさわしいと考えているらしい。しかしながら昨日のデモで面白いなと思ったのは、Socialist Workerとか明確な政治団体の看板を持ってる人たちはこういうポピュラーカルチャーをまとって来ない傾向があることである。ポピュラーカルチャーを着て運動にやってくる人たちはどっちかというとそういうところで組織化されてないナードが多いんじゃないかって気がする(ガイ・フォークスのマスクが広まる一員となったアノニマスとかってこういう組織化されてないナードだよね?)。まあ気がするだけなので詳しいことは言えないのだが、ポピュラーカルチャーの利用には「自分はポピュラーカルチャーを利用する側の人間である=99%なんだ」という主張が隠れているはず…だよね。自分たちが99%だ、と主張するにあたってはポピュラーカルチャーの利用自体が明確な政治主張になりうる(個人的には自分たちは99%だとかいう多数派アピールは好きじゃないが、言わんとしていることは理解できないわけではない)。

 この他にもきっとプロテストで参照されているポピュラーカルチャーはあるはずなので、他にどういうものがあるのか興味ある。スター・ウォーズのファンはいないのかな?アメリカではどうなんだろう?