メソード演技vs英国舞台〜『マリリンとの一週間』(My Week with Marylin)

 『マリリンとの一週間』(My Week with Marylin)を見てきた。

 これはマリリン・モンローローレンス・オリヴィエと『王子と踊り子』を撮影するためイギリスに滞在する間アシスタントをつとめたコリン・クラークの手記をもとにしたものである。コリンはオリヴィエプロダクションの新米のアシスタントでマリリンの大ファンだったのだが、純朴でかいがいしく働くところが慣れない職場で苦労するマリリンに気に入られ、だんだん心の交流を…という話である。だいたい事実に基づいているようだが、どうも多分に美化されているのではという気がしないでもないので、まあマリリンとコリン・クラークが恋愛関係になったという史実のほうは話半分にきいておいたほうがいいかも。

 全体的に話のほうは結構単調で「ファンの夢が現実に!」の域を出ていないし、マリリン・モンローのキャラクターもちょっとステレオタイプ的なところがあり、すごく面白いっていうわけではない。とくにモンローが非常に弱くて無垢な存在として描かれており、人から愛されるために映画に出なければ精神の均衡を保てないパフォーマーの業みたいなものがあまりよくわからないのはちょっとなぁと思った(最後にコリンがマリリンに求婚する場面で一瞬マリリンの「パフォーマーの業」みたいなものが見えるところがあるので、あれをもっと全編に出すべきだったと思う)。マリリンは公民権運動の支持者でエラ・フェッツジェラルドが白人しか出られなかったクラブに出演できるよう策略をめぐらしたりとかしていたらしいので、脆い一方でそれなりにビジネス上の駆け引きもできるショーガールだったのではと思うのだが、そういう複雑なところはほとんど出てこない。しかしながら見所はたくさんある映画である。

 で、この映画の一番の見所はミシェル・ウィリアムズマリリン・モンローなりきり演技である。とにかくびっくりするほど美しい。実際のマリリン・モンローより少しだけほっそりしていて脆そうに作ってあるあたりがカギかと思うのだが、まあウィリアムズは本当に頑張ったな…Heat Waveを歌う場面がYouTubeにあがっているが、歌い方もしっかり真似ている。

 途中でオリヴィエ(ケネス・ブラナー)の妻ヴィヴィアン・リー(ジュリア・オーモンド、これまたそっくり演技)が『王子と踊り子』のラッシュを見て「マリリンがこんなにキレイだなんて!」と泣くところがあるのだが(夫をとられるのではという不安とパフォーマーとしての嫉妬が入り交じったなかなか複雑な場面である一方、マリリン同様精神疾患を抱えてオリヴィエと別れるリーの末路を暗示する場面でもある)、全編にわたってウィリアムズのモンローはまったくやりきれなくなるほどきれいである。


 もうひとつの見所はメソード演技と英国式の舞台演技の対立で、はっきり言って私は本筋のコリンの話よりこっちのほうがずっと面白かった。マリリンは偉大な女優を目指すべく演技のコーチとしてリー・ストラスバーグ夫人であるポーラ・ストラスバーグを雇ってイギリスまで連れてきているのだが、英国の舞台出身キャストで固められている制作チームは役柄のキャラクターを掘り下げることに時間をかけるメソード演技が気に入らず、とくにオリヴィエは「監督は自分だけで十分」「役柄は台本の中にあるじゃないか!」といらだちを隠さない。演劇史とか映画史に興味がないとなんかこのあたりはマリリンが舞台のえらそうなヴェテランにいじめられてるみたいに思うかもしれないが、これは実は結構根深い対立を背景にした話である。

 メソード演技は結構有名なのでみんな知っていると思うのだが、これは役柄がどういう人なのか徹底的に研究し、内面を掘り下げて自分でその役柄の感じていることを追体験してリアルな演技ができるようにするというものである。アメリカの近代演劇や映画はかなりリアリズム指向なところがあるので、こういう手法の芝居はうまく使えば非常に効力を発揮する。ただ、リアルな演技ができるならそれでいいじゃないかと思うかもしれないが、これは一種の憑依演技?のようなもので役柄の内面を掘り下げたり研究するのに非常に時間も体力も必要なので役者に負担がかかりやすい。例えばロバート・デ・ニーロは役柄のために過激な体重増減をやったりするし、ヒース・レジャーは『ダークナイトジョーカーのために一ヶ月くらいひきこもり状態で役を研究したらしいし(その後レジャーは亡くなったのでたぶんあれは一種の過労死だろうと思うのだが)、気力も体力も充溢している役者バカでないとなかなか年取るまで続けるのは難しいと思う。
 しかしながら英国の舞台は歴史的・文化的経緯が違うので、メソード演技では対応できないところが多い。例えば16世紀末〜17世紀のロンドンの舞台は大変競争が激しく、今の映画やロングランの舞台なんかとは違ってお客さんを飽きさせないためよっぽどの人気演目でないかぎりは一ヶ月連続上演とかしないでいくつかの演目をレパートリー制で交替で数日おきに上演するというような手法をとっており、かつお金持ちの屋敷なんかに呼ばれてパトロンの好みの演目を上演するとかいうこともイレギュラーにやっていたわけだが、こういう演目の入れかわりが激しい上演方法だと看板役者は今日は悩める王子ハムレット、明日は野心満々のリチャード三世、明後日は情熱的な恋人ロミオ…とかいうふうに毎日違う演目をやらないといけないわけで、これだと到底メソード式の「役柄を研究して内面を近づけましょう」みたいな手法では演技ができない。役の間だけきちんと演技をして、終わったら明日違う役ができるように備えなければいけない。また、シェイクスピアとか(たぶんモリエールとかラシーヌとかもそうだと思うのだが)の戯曲はもともと現実そのものをリアルにうつすのではなく、舞台という形式を通して現実をデフォルメしより見えやすくする(見えやすくするということは現実をそのまんま映すことではない)というようなところに主眼があることが多いので(当然、登場人物もそこらにいる人々よりいっそう邪悪になったり、偉大なったり、異常なまでに機知に富んでいたりする)、おそらく役者は自分の芝居を客観的にフィクションとして見ながらどうやったら現実がうまくデフォルメできるか考える必要がある。そういうわけで自分で役柄を追体験するようなメソード演技ではあまりうまくいかないこともある。イギリスの舞台出身の役者はメソード演技とかバカげていると公言する人もおり、役柄の内面を掘り下げるよりも台本をきちんと読んで台詞回しを鍛えろとかいうことが多い。例えばアンソニー・ホプキンズはヴェジタリアンなのだがレクター博士をやる時に別に毎日肉を食ったりレクターの内面を追体験したりはせず(なんか追体験したらヤバい気がするが)、台本を完全に暗記して台詞がなじむまで練習するのだそうだ。


 そういうわけで前置きが長くなってしまったのだが、この映画ではこのアメリカ対イギリスの演技観の対立が結構ちゃんと描かれていたと思う。しかしメソード演技みたいなのってマリリン・モンローに本当にあっていたのかな…なんというかマリリン・モンローが演じるような役柄というのは「現実にはありえないほど美しい」女性だと思うので、リアリズム志向の芝居よりはイギリス式の演技のほうが本人に負担がかからなかったのではという気もするのだが。まあイギリスの撮影陣のほうにも問題はあり、とくにオリヴィエが「この映画は軽い喜劇なんだぞ!それなのにキャラクターをつかむとか必要か!」ともっともらしい理由で怒ったあと、マリリンに「セクシーな感じでやればいいんですよ!」とポロっと大失言してしまうあたりとか、オリヴィエのいいところとやなところが演技の話に絡められてよく出てた気がする。

 そういうわけで演劇史・映画史に興味ある人は面白いポイントがいくつもある映画だった。とてもオススメです。