ナショナル・ギャラリー「レオナルド・ダ・ヴィンチ〜ミラノの宮廷画家」展〜チケットは寒い中五時間待ち、展示内容は超充実

 ナショナル・ギャラリーの超人気展示「レオナルド・ダ・ヴィンチ〜ミラノの宮廷画家」展を見てきた。

 なんと全てのタイムスロットのチケットが売り切れてしまって当日券しかないため、ロンドン市民は朝7時くらいからギャラリー前に列を作っている。私は1回目は朝十時、2回目は朝八時に行って既に売り切れで、今回は朝七時四十五分くらいに着いてやっとチケットがあたることになった…のだが、十時開場なのにチケットを売る処理が異常に遅く、当日券(夕方五時半からのもの)が手に入ったのは昼の一時。それまでトラファルガー広場に600人くらいの人々がクソ寒い中列を作って待っているわけだが、ナショナル・ギャラリーは整理券を配るとかしてこれをどうにかしようとは考えないのかね?とにかく顧客サービスは最悪レベルである。最後のほうとかもうあまりの寒さと販売処理の遅さに待っている人たちはかなり殺伐とした雰囲気で"Hell! Hell!"とか口々に言っていたし、私も並ばなきゃよかったと激しく後悔した。

 それで展示のほうだが、五時間並ぶ価値があるかどうかはともかく展示の充実度はハンパではない。まずルーヴルにある『岩窟の聖母』バージョン1を借り出してきてナショナル・ギャラリーにある『岩窟の聖母』バージョン2と大部屋で対面するように展示しており、ビデオとパネルでどういうふうにこの二枚の絵が異なっているのか詳しく説明しているので、いったいレオナルドが二枚目を描くにあたりどのあたりを変更したのかが手に取るようにわかるようになっている。一見たいして変わらないように見えるのだが、こうして二枚じっくり見比べると、ロンドンにある二枚目のほうは背景奥の青い霧とかがかなり工夫されているのがわかる。ビデオでレオナルドは常に"better ideas"を持って描き直していたと言っているが、二枚目のほうがたしかに明らかに工夫箇所が多くなっているように見えるのでこれはすごいと思った。

 あと、クラクフにある「白貂を抱く貴婦人」とルーヴルにある「ミラノの貴婦人」が同じ部屋に展示してあり、この二枚がいっぺんに見比べられるとか一生ないと思うのでまあとにかくすごい。「ミラノの貴婦人」は表面のひび割れがかなりひどいらしいのだが、ライティングとかでうまく隠してあって完璧な美女の画像のように見えるし、「白貂を抱く貴婦人」も背景などに一部損傷があるらしいのだが全くそうは見えない。
 この二枚を見比べると、レオナルドの描く理想の美というのは官能ではなく知性に訴えかけるものなんだなと強く思った。二枚ともモデルの女性を完璧に美しく描いているしモデルの性格をよくとらえていると思うのだが、どちらも髪の毛とか胸とか肉感が出そうな箇所がなるべく目立たないように処理されており、全く色気というものがない。とくに白貂のほうはルドヴィコ・スフォルツァの愛人であるチェチーリア・ガッラーニがモデルらしいのでもっと若々しく愛らしい色香があってもよさそうだと思うのだが、純粋さを象徴する白貂を抱いていたりしてまるで天女のようだ。むしろレオナルドだとこういう世俗的な女性の肖像画よりもルーヴルにある洗礼者ヨハネのような男性を描いた宗教画のほうが独特のなまめかしさがあるあたり、ルネサンス特有のちょっと変わった聖性と官能の結びつきを感じる一方、こういう世俗的な絵画で理想の美が追究できるというあたりはミラノの権力と経済的繁栄がバックにあるんだろうなとも思う。フェルメールの絵画なんかもそうだと思うが、商業が非常に安定して文化を全面的にバックアップしてくれるような時代でないと、こういう官能性(美しいがいつかは老いる人間の肉体に根ざしているという点で儚いものである)から離れた永続的な理想の美を世俗の世界で追求するような絵画は生まれないのではないかと思う。

 これ以外にも「マドンナ・リッタ」とか「聖ヒエロニムス」などを見ることができ、たぶん一度にこんだけレオナルドの大作が見られる機会はほとんどないだろうと思う。これだけ絵を集めるのにナショナル・ギャラリーがどれだけ努力したのかと思うと感心するが、それでもやっぱり顧客サービスは最低レベルである。