ハムレットあるいはお岩

 日本で死刑が執行されたそうで、死刑の存廃についていろいろな記事があがっている。

森達也「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい
茂木健一郎氏 @kenichiromogi 【なぜ日本は死刑廃絶の動きが弱いのか?】連続ツイート

 …それでこういうのを読んで思ったのだが、御霊信仰とかお盆とかがこれだけ根付いている日本で死刑廃止を訴えるなら、たぶん唯一神を設定して最後の審判とか赦しとか贖罪とかの教義を信じているクリスチャンが多数派である社会を説得するロジックでは全然周りの人を説得できないのではないかと思うのである(そう思っている人は他にもたくさんいると思うし研究もあるのではないかと思うが)。そのあたりを日英演劇を比較しながらちょっと本日は考えてみたい。

 とりあえず日本の民間信仰においては、死者というのは非常に満たされない危険な状態にあるもので、きちんと成仏するまで現世にいるという考えがあると思う。恨みを残して亡くなった死者となればそれはそれは危険な存在であり、恨みの原因となる人どころかその周辺の共同体全部に取り憑いて災いをもたらしたりする。今でもみんなが拝んでいる天神様菅原道真が怨霊化して都に災いをもたらしまくったので祀られたものであり、恨みを残して死んだ人はきちんと祀らないとまずいことになる。

 そんなんは平安時代とかの昔の考えだと思う人もいるかもしれないが、たぶんこの死生観は今でも結構生きていると思う。とりあえず下の石牟礼道子苦海浄土――わが水俣病』から、水俣病で苦しんでいた患者の方が言ったことを抜き書きした一節を読んでいただきたい(手元に現物がないのでネットの孫引きでページ数不明です。すいません)。

銭は1銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人、水俣病になってもらう。あと100人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか。

 これは子供の頃教科書で読んで私は結構ショックを受けたのだが(ただし「奥さんがた」のところはカットされてたな)、こういう無念のうちに死んだ者の恨みは害をなした者に怨霊が取り憑いてその命を奪うことによってしか鎮められない、金銭とか赦しといった近代社会の規則では解決できないものなのだ、という感覚はなんとなく呪術的に理解できるところがあるし、たしかこの文章を国語で習った時もそういうような解説がついていたはずだ(テキストに入っていたのは『苦海浄土』本文じゃなくその解説文だったはず)。この言葉について著者は死霊とか生霊の比喩を使って説明していたような覚えがあるのだが、たぶん日本の民間信仰だと水俣病で亡くなった死者たちには怨霊となって「会社のえらか衆」に取り憑きとり殺す正当すぎる理由があるのである。

 
 それでたぶん日本の演劇とか文芸にはこういう恨みを持った者が怨霊となって加害者とその周辺の共同体に災いをばらまく→加害者が死亡する→共同体の秩序が回復する、という話がたくさんある。一番はっきりしているのは『東海道四谷怪談』だと思うのだが、この話では夫である伊右衛門に殺されたお岩が怨霊となって伊右衛門に取り憑き発狂させ、結局伊右衛門はお岩の妹の夫である与茂七に殺害される。伊右衛門は発狂過程でものすごい凄惨な殺人を繰り返すのだが、これはつまり死者の怨念が効いている間は加害者本人だけではなくその周辺の共同体にも怨念の災いが降りかかる、ということを示している。あと『忠臣蔵』は『四谷怪談』のスピンオフなのだがたぶん基本はそっくりで、塩冶判官が怨霊になって高師直を直接的に取り殺すかわりに、その無念を知る由良助たちが高師直を殺して主君を成仏させるということになるのだだと思う。この二作はたぶん歌舞伎の中でもとくに上演回数の多いものなはずだが、どっちも死者の恨みとその成仏を主題としている。現代では四谷怪談忠臣蔵もそんなに人気がないかもしれないが、恨みを持った者が怨霊になって共同体を襲いに来るというモチーフは『もののけ姫』とかにも出て来るから、たぶん現代人の間でも割合理解されているはずである(あれは加害者を殺害して成仏する話ではないので『四谷怪談』よりだいぶ複雑だと思うが)。


 で、ヨーロッパにはこういう話はないのかと言われればもちろん『ハムレット』と『マクベス』がある(その他のヨーロッパ演劇にはちょっと詳しくない)。しかしながら『ハムレット』も『マクベス』も怨霊の位置づけがかなり『四谷怪談』なんかと違っている。『ハムレット』では、先王ハムレットの亡霊はなぜか自分を殺したクローディアス本人には取り憑かない。亡霊はハムレットとしか口を利かないし(ホレーシオとその仲間の不寝番たちには見えているようだが話すのはできない)、居室の場ではガートルードには亡霊が見えていないのにハムレットには見えているというヘンな状態が発生する。つまりどうも亡霊は亡霊のことを覚えている人にしか姿を見せないようで(ガートルードは既に亡夫のことを忘れているので居室の場で亡霊が見えない)、積極的に人間に取り憑いて共同体を破壊する外的な力というよりは人々の心の中に存在するものに見える。ハムレット自身も最初のほうではこれはほんとに父の亡霊か、実はなにか悪魔とかなのではないかと疑っていて、自分でもよくわかってないみたいだ。私の解釈では『ハムレット』は非合理な人間の精神(亡霊)対理性(亡霊なんかいるわけないじゃん)の対立を神の摂理によって止揚するような話だと思うのだが(ハムレットいわく「雀一羽落ちるにも神の摂理がある」)、まあこのあたりの解釈はたぶん非常に割れているので芝居を見た人ひとりひとりの解釈にゆだねる他ない(演出によっては完全に亡霊は狂ったハムレットの妄想だということにするものもあるし、もうちょっと日本の怨霊に近そうな先王の亡霊が出てくるのもある)。『マクベス』は「良心のあらわれとしての亡霊」というモチーフがいっそう顕著で、バンクォーの亡霊はマクベスにしか見えないのでもうこれは明らかにマクベスの良心の呵責が作り出したものである。『リチャード三世』は呪いの成就がモチーフになっているのでちょっと日本の亡霊ものに近い気がするのだが、亡霊たちは出陣前のリチャードの夢枕にちょっとあらわれるだけで現世に戻って出歩いたりしない(する演出もあるけど)。

 それでこういうシェイクスピア劇に出てくる人々がなぜ亡霊を見るのかっていうと、まず世界観として全能の神がおり、その神により規定された良心を持って人々が生きている、という前提があるからなんだろうと思う。亡霊は良心が見せるまぼろしだが、「雀一羽落ちるのも神の摂理」であるようにこういう良心とかは全部唯一の神の思し召しに組み込まれたものである。ところがお岩や天神様はまあたぶん人間の良心から生まれたものなんだろうけど(これは演出によると思う)、唯一の神の摂理とかは全然なくそれぞれ怨霊が猛烈な荒ぶる神となって現世に出て来て自立的に行動するせいで、『四谷怪談』や天神様のお話では怨霊たちがやたら実体のあるものすごい現実の脅威に見えてくる。

 それで、日本で死刑廃止論がなかなか高まらないのは廃止論を訴える人たちがなかなかこういう土着的な怨霊に対する恐怖感に切り込めないというとこがあるからでは…と思う。日本で死刑を存続すべきだという人が多いのはたぶん怨霊となった人々の魂を鎮めるには害をなした者の命を捧げるしかない、そうでないと怨霊が猛悪化して共同体に災いをもたらす、という呪術的な思考が今でもかなり残っているからではないんだろうか(今でも占い師とかいっぱいテレビ出てるし、みんな怨霊とか実は怖いんでしょ?)。なんか世の中には驚くほど呪術的思考の訓練ができていない人もいるのでそういう人にはわからないかもしれないが、害をなした者が生きている間は死者の怨霊が鎮まらないという感覚はなかなか合理的に追い払えるものではないし(うち無神論者なんだけどやっぱり土葬のお墓とかなんか近くにあったら怖いわ)、このあたりの宗教観をきちんと分析し、怨霊を怖がる人たちをバカにせずに説得するロジックを考えないと死刑廃止の動きは高まらないのではと思うのである(たぶんこのあたりは頭ではわかっていてもなんとなく放射線が怖いとかそういうのと似ているだろう)。こういう宗教観というのはローカルな文化の中で身につけるものなので、キリスト教文化圏で用いられたロジックをそのまま持ってきて説得するんじゃダメでロジックのほうもローカライズしないといけない。

 ただこういう怨霊が怖いという信仰は日本以外にもあるはずだと思うので、御霊信仰的なものがある文化圏の怨霊が近代化とどうやっておりあいをつけているかはかなり興味深いことだと思う。東アジアだと中国や朝鮮半島儒教の影響とか(あと韓国はクリスチャンも多いし)があるので怨霊とかそんなに多くないかもしれない気もするのだが、東南アジアなんかはどうだろう。