キリアン・マーフィ主演『ミスターマン』〜戯曲が最低だと思ったんだけどこれって文化的な問題?

 ナショナルシアターでエンダ・ウォルシュ作、キリアン・マーフィ主演『ミスターマン』を見てきた。

 …で、これロンドンの批評では軒並み絶賛なんだけど私は全然面白くなくてなんかすごい不愉快かつ眠かった。完全にキリアンの一人芝居(テープに録音された声とかは使われるけど)で、イニシュフリーに住んでいる過激な福音主義者のトマスという若者が周りの人たちの反キリスト教的な行動をいろいろメモしてるっていう話なのだが、うちの英語力が足りないのか、福音主義者が主人公ということで非キリスト教圏で育った人にはわからないようなすごい文化依存度の高いネタが多数仕込まれているせいなのか、それともそもそも私がこういうタイプの芝居をもともと嫌ってるせいなのか、なんか21世紀ふうにうるさくなってかつ過剰にローカライズされたベケットの亜流としか思えなくてほんっとつまんなかった。

 この戯曲はお話からテープの使い方みたいな技法も含めてかなりベケットに影響を受けている。で、私はベケットの魅力というのはすごくミニマルで文化的設定が少なくそのぶん演出の自由度も高いので、うまくやれば雑多な背景を持つ客の想像力をまんべんなくそそれるというところだろうと思うのだが、『ミスターマン』は不条理劇のくせにアイルランドの田舎が舞台ってことでなんかまるで基本設定に風俗劇みたいなところがあり、客にすごく設定の共有を強要してる感じで不条理劇のくせにこんなんでいいんだろうかって気がした。またおそらくその設定を共有できているから面白がっているのであろう周りの観客からも取り残されて私は大変不愉快であった。

 去年見た同じエンダ・ウォルシュの作品『ペネロープ』はオデュッセイアの番外編にアイルランド人をいっぱい出してみるというある意味すごくオーソドックスなアイルランド文学の手法で面白おかしい不条理劇を書いていてわかりやすくてすごくいいと思ったのだが、『ミスターマン』は初期の作品の修正版らしいので若書きでうまくいってないところがあるのかなぁ…『ペネロープ』はホメロスジョイスをよく消化して自家薬籠中のものにしていたと思うんだけど、『ミスターマン』は古典からの引用が『ペネロープ』ほど明確でないわりにベケット的なスタイルに頼りすぎてると思う。

 ただしキリアン・マーフィはすごかった。あのデカい舞台に一人で立ってて、そんなに体の大きい役者でもないのにまるで舞台のほうが狭く感じられるくらいエネルギッシュで独特の存在感がある。まあ福音主義の変人ということで本来有しているはずのイケメン力を封印していたため眼福って感じではなかったのだが。