舞台、観客、その間にある権力〜バナナ学園問題から考えたこと

 えーっと、一昨日くらいから演劇クラスタを騒がせているバナナ学園問題というのがある。これはバナナ学園純情乙女組というカンパニーが王子小劇場で行った「翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)」という公演において、男性パフォーマーが観客の女性の胸などを同意を得ずに触り、自分の下半身が触れるような状態で性行為の真似をする行為を行ったということがツイッターで報告された、という問題である。

 私はもちろん公演は見られないので(1万キロ離れている)、基本情報はツイッターや劇場のウェブサイトから得た。

発端となったtogetterまとめの魚拓(タイトルが扇情的なので書きません)
残っている短縮版のまとめ「バナナ学園に関して」
消される前のおおもとのtogetterのはてブ

 このあたりまではウェブ上で流れている情報だけで真偽不明なとこがあったのだが、ハコである王子小劇場ウェブサイトにも情報が掲載されたので、どの程度上の情報が正確かはともかく劇場側が「過剰な演出」と見なすものはあったようだ。
バナナ学園純情乙女組公演に関して

 関連情報として以下のリンクもどうぞ。
公式サイト
演出家である二階堂瞳子インタビュー
しのぶの演劇レビュー
これを知った演劇クラスタの反応まとめ1「バナナ学園過剰演出に対して関係者の意見と見解」
これを知った演劇クラスタの反応まとめ2「バナナ学園の件に関する@umikodayone氏の見解」

 私は自分で見てないプロダクションについては意見を差し控えることにしているし、被害を受けた方のことを考えるとなんかもうほんとあまりにひどくてそういう方の目に触れそうなことを公の場で書かないほうがいいんじゃないかという気もするのだが、この話についてはちょっとシェイクスピアリアンで観客論を研究している自分としてなんかいろいろどうしても腹に据えかねるところがあり、どうしても書かないといけないという気がするので私の独断と偏見に満ちたスタンスを長々と書きたい。

 まず私のかけ出し研究者としてのスタンスを軽く説明しておきたいのだが、私は自分の博士論文ではとことん観客中心の演劇論を考えたいと思っていて、自分では絶対に演劇を作るほうに関わらないようにしている。日本にいた時は数回裏方みたいな仕事を手伝ったこともあるのだが正直結構幻滅したし、やはり作る方に回ってしまうととことん見るほうの視点から芝居を考えるということができなくなってしまうと思ったし、また煩わしい人間関係ができて書きたいことが書けなくなったりしてしまうかもしれないと思ったからである。こういうスタンスなので、私は舞台のプロダクションに対してはとことん冷たく上から目線で接するようにしているし、芝居を見る時もできるだけ客いじりされない後ろのほうの席に座るとかいろいろ気を付けてる。まあ実際に現場に入って研究して業績をあげてる人もいるし、そのほうがやりやすいだろうなとは思うのだが、私はそういうのはあまり好きではない。

 …で、この劇団がシェイクスピアをやるらしいことは私も公演が始まる前から知っていたのだが、ウェブサイトを見ただけでこれは地雷だなと私の観劇動物としての直観が告げたので全然チェックせずにいた。というかもともと私は東京の一部の小劇場にあるあの独特の過剰な自意識とそれに基づいた見せかけの民主主義ごっこみたいなのが嫌いであまり小劇場には行かないので(もちろん小劇場でいい仕事をしている人たちもたくさんいるのであくまでも一部ってことだし、世界中津々浦々に形は違えどそういうパフォーマーは溢れていると思うのだが)、そもそもこの問題について語る資格がないかもしれないと思う。しかしながら一連の経過を見ていると、これはそういうパフォーマー側の自意識そのもの、そういう人が作る芝居そのものに内在する権力の問題であって、ここを洗わないと根本的な解決にはならないんじゃないか、こういうひどいことがまた繰り返されるのではないか、という嫌な予感がしてきたので、なんかもうたまらなくなって書こうと思う(補助線はブレヒトとスタンリー・フィッシュだがそれはまあどうでもいい)。

 なんかもう自分のドロドロした不満を精一杯吐き出したので超長文で四部構成である。第一部が一般的な舞台における性表現について、第二部が客いじりについて、第三部が舞台と観客の間にある権力関係について、第四部はただのオマケ。

(1)一般的な舞台における性表現について

 とりあえず私の基本的スタンスとしては、舞台芸術の表現というのは基本的に自由で、事前にある程度告知とかゾーニングとか(ロンドンだと「子供は入場不可」とかゾーニングがあり、性的内容・暴力・言葉遣いの他、強いフラッシュライトの使用とかも告知される)さえあれば、観客は「見せ物」の内容についてはある程度過激であってそれを見せられることに事前に同意していると見なせると思うので、基本何を見せてもいいだろうと思う。性的な内容があると告知していればパフォーマーが全裸になってもいいし、暴力的な内容であると告知していればステージで血が飛び散ったり役者同士が本気で殴り合ったりしても別に全然かまわない。事前に告知のある見せ物に関して観客がこれは自分への性暴力だと言うことは無理があるだろうと思うし(不愉快だったという意見を表明したり、演目自体の質がダメだと叩くのはもちろんあり)、とくにクリエイターのほうが謝罪する必要もないと思う(告知がなかったり、子供を入場させたのにすごい暴力表現とかをしたというのはちょっと論外)。

 この点について、事前に性的内容があると告知していて全裸や性器を見せて観客がショックを受けた場合それは性暴力といえないのか、謝罪が必要ないのか、という批判はあると思うし、ツイッターでもそういう批判を頂いたのだが、私は事前に性的内容があるという告知があった場合、これを性暴力とするのは無理があると思う。一般的に公衆の面前での裸体露出でどこまでを暴力性のあるものとするかというのは非常に難しい問題で、例えば酔っぱらって服脱いじゃう人(これはただのアホだな)とか、家では常に裸族でしかもずぼらな人(これもアホだな)とか、ストリーキングやる人(これも半分はアホ、半分は政治的意図とかがあるのかな?)とか、授乳や日光浴のために女ばかりのところでおっぱいを出してうっかり他人をびびらせる人(これって悪気ないよな)とか、ヌーディストとか抗議活動で全裸になる人(こういうのは思想信条の問題だよな)とか、世の中には人前で服を脱いじゃう人が結構いるが、こういう人たちは別に自分の性的興奮のため他人の人権を犠牲にする露出狂(ジャン=ジャック・ルソーとかね!)とは明らかに違う。同じ見せ物だという点では演劇はストリーキングや抗議活動に一番近いと思うが、目の前で全裸のサイクリストによる抗議活動が発生して(私はトラファルガー広場でそういう抗議活動に出会したことがあるのだが)性器を見ちゃってショックを受けた場合これを性暴力と呼べるかといえるとちょっとそれはないだろうと思う。見せ物なんかで事前の告知がある場合はなおさらである。もちろん不愉快だと思う人はいて当たり前だしそういう意見表明もあっていいと思うし、あとやたら全裸になるって芝居の質としてどうなのよっていう気もするが、少なくともこれは露出狂などの性暴力と一緒にすべき問題ではないように思う。
 
 あと、性表現全般については、たしか猥褻物陳列関係の裁判で、一般的に美術館とか博物館はその外よりも過激なものが展示されるところなので外の場と同じ基準で猥褻を判断できないという判例があったはずで(ただこの法的判断の正確なソースが見つからないんだよな…だれか知ってます?)、劇場もこれに準じると思う。


(2)客いじりについて

 で、今回問題となった客いじりについてであるが、まあ基本的に私が考えているのは、演劇における表現の自由が拠って立つ自由主義の決まりに倣い、他人を不快にさせる表現行為をやっても全然良い、ただし事前の同意なしに直接的に他者の身体に暴力的危害を加える行為だけは厳禁する、いうことである。

 基本、舞台芸術は見せ物であって観客はパフォーマンスを見たりきいたりするために来ているので(なんか観客参加型とかいう言葉があるが、本来演劇って「見る」「きく」だけで参加できるものだと思うのでこの言葉はあまり好きではない)、前項で述べたように見るほうについては告知さえしていれば何をやってもいいと私は考える。

 しかしながら客を実際にいじるということはたぶんパフォーマンスとしてはかなり危険な行為で、これは細心の注意とパフォーマーのほうのテクニックが必要である。同意さえとれていれば結構何をやってもいいと思うので、例えば客の身体に触ったり、客を舞台にあげて踊らせたりしてもいいと思うし、極端な話殴り合いをしたりしてもよかろうと思う。この間見たバーレスクの公演では男性のバーレスクアーティスト(過激なショーで有名な人で、かつその日はセックスと暴力満載のTwistedキャバレーの日だったから司会がさんざん忠告してた)が最前列の男性客を舞台にあげてかつらをかぶせ、さらにはパフォーマー(つまり自分)のケツをお客さんに殴らせていて、あれは結構ヤバいなと思ったのだが、パフォーマーがうまいことお客さんをのせて自分を殴るようし向けていたし、舞台で火を焚いたりポップコーンを作ったりするわりには客が危なくないよう意外に気を使っていたので(裏方がこっそりコンロの火をとめたりとか)まあギリギリ許容範囲かなと思った。

 しかしながら今回の行為は明らかに「性的表現」とかではなくただの暴力行為だと思う。役者同士であらかじめとりきめて行うのではなく、知らない観客の胸をいきなり触ったりするというのは「性的行為の演技」とか「性的表現」ではなく「性的行為」そのものである。 @sounds_so_goodさんも言っていたが、「どんな環境下であっても、合意のない性的な行為は性的暴行」で、芝居を見に行くときにいくら性的表現があることを了解していたからといって自分が直接性的な行為をされるということまで了解したわけではない。さっき言ったとおり劇場というのは外とは違うルールで動いていて、そこでは乱暴な言葉遣いとか暴力・性表現などが許されているという点では公的空間より私的空間に近いわけだが、たとえば私的空間で男女(女女でも男男でもいいけど)が和気藹々とエロ話をしたり性的表現のある映画とかを見ていたとしても、合意なく性的行為を行おうとしたらそれは性的表現ではなく単なる暴力行為である。内容をわかってハコに来たから何をしてもいいんだ、全部合意したものとみなす、というのは典型的なセクハラの正当化にしか見えない。


 まあしかしプロダクションを見ていないのでえらそうなことは言えないのだが、伝聞情報だけを分析するとこのカンパニーは客いじりに関してひどい大根であるように見える。演劇というのは現実より現実らしいフィクション、現実のデフォルメであって現実とは異なるわけだが、エロ話(フィクション)と実際の性行為(現実)を混同しているという点ではこの観客に暴力を加えたパフォーマーは虚構と現実の区別がついてない人のように見える。また、上手なパフォーマーというのは強要とか全然しなくても客が自発的に演目に参加するようし向けられるものだが、それができないから無理矢理客をいじめてウケを狙うというのはとんでもなく芝居の質が悪い。私が結構信頼しているしのぶさん演劇レビューでもやはり演技が未熟だという指摘があるので、そもそも芝居のできない役者が図に乗って暴力行為を働いたのかもしれないと思う。

  また、舞台芸術において演者が暴力行為を行うことについて事例として参照できそうな先例がふたつほどある。まずはちょっと前にイギリスとかヨーロッパで問題になったハッピー・スラッピングという行為があり、これはよく知らない人に突然暴力を振るってそれを撮影し、ネットなどで娯楽コンテンツとして頒布するというものである。劇場に来ているお客さんとはいえもとは他人であり、他人をいじめて娯楽コンテンツにするというのはこのハッピー・スラッピングと同じことをやっているように見える。
 ふたつめにもうちょっと古い事例としてガンズ&ローゼズのアクセル・ローズが1991年にライヴ中撮影とかマナー違反なことばかりしていたファンを襲ったという事例があって動画(というかこれホンモノ?ビデオ撮った他のヤツが襲われてんのにちょっと撮ったやつ大胆すぎじゃない?)も残っているのだが、ガンズは態度が悪いバンドとして有名だったけど、それをききにきたからって別にファンは会場で暴動が起こることを了承してたってわけじゃないし、ライヴ中に観客がマナーを破ったからといって殴られていいわけじゃない。


(3)舞台と観客の間にある権力関係について

 最後に、私がこういうのは別にこのカンパニー特有の問題じゃない、一部の舞台芸術の世界に蔓延している精神構造が問題だから危険だと思うんだ、っていう話をしたい。

 本来パフォーマンスというのは客の権力(見る力)と舞台の演者の権力(見せる力)の微妙な権力関係で成り立つものであって、理想的な環境ではこの二者が対等な立場で牽制しあうスリリングな緊張関係があるはずである。客はつまんないパフォーマンスにはブーイングをとばし、良いパフォーマンスには拍手をしたり口笛を吹いたりすることでいつでも意志を表明できるし、パフォーマーは客の反応を読みながら客の人心を攪乱し操作しようとする。

 客いじりがちゃんと成り立つのは舞台と客、二者の立場が対等である場合だけである。例えばプロの演者が初心者ばっかりで右も左もわからない客を見巧者をいじるつもりでやたらなれなれしくいじったり、初心者のパフォーマーを客がやたら激しく煽って困らせたりしてもあまり面白いパフォーマンスにはならない。一度ひどい結果に終わった客いじりを見たことがあるのだが、これはバーレスクの公演で「ステージで踊ってくれるお客さんはいますかー」と声をかけたところ、泥酔したオッサン(言っちゃ悪いが舞台を見るのに向いてない客)があがって一人で踊りまくって皆を困らせたというもので、ああいうのは本当に白ける。

 で、演者と客が対等な関係にある楽しい舞台では、最終的に舞台の善し悪しを判断するのは見る力を持った客が作る解釈共同体(スタンリー・フィッシュの用語だけど)であって、自分のパフォーマンスを客観的に判断できない演者のほうではない。見せる力を持って客を動かせるパフォーマーは評価されるし、自分が客に及ぼす権力をカンチガイしたパフォーマーは評価されない。

 しかしながら、たまにパフォーマーが自分の権力を絶対視し独裁者になることがある。もともと舞台を見る時にできる観客解釈共同体というのは密度の濃い時間を狭い場所に詰め込まれて共有するというとこがあるため、バラバラに読み物を読む読者解釈共同体より均一な解釈を出しやすいという傾向があると言われている(このことはゲイリー・テイラーとかいろんな研究者が指摘しているしたぶん芝居に実際に通う人は身に覚えがあると思う)。そのぶん少ない人数の人を濃く扇動するプロパガンダとしては適していると思うし(たくさんの人を薄く扇動するのが文字媒体)、作り手の意図により客が均一な解釈に導かれることも多い。作り手の自意識が肥大し権力が大きくなりすぎると、独裁的な作り手たちが舞台を圧倒して観客は舞台が作る権力圏に巻き込まれ思考停止するだけの状態になり、本当にこの芝居は良かったんだろうか、あの演出は問題があったんじゃないだろうか、とかいうことが考えられなくなる。こういうのは質の悪いダメな演劇だと思う。

 大仰なことを言うようだが、私はブレヒトとかはたぶん、そういうのがファシズムに似てると思って異化効果とか言い始めたんじゃないかと本気で思っている。ナチスはろくでもない大根役者ばかりで、自然科学も人文科学もねじまげた茶番劇みたいなプロパガンダをやっていたが、見せ方が良かったせいでドイツの善良な市民(善良っていうのはつまりプレゼンにひっかかりやすいというとこだと思うが)はみんなこれは茶番劇ではなくステキな真実なんだと信じてしまった。ファシズムのせいでひどいめにあったブレヒトやその周辺の芸術家が異化効果を重視したのは当然だと思う。


 で、今回の問題について私がほんっとうにイヤだなと思うのは、こういうのの背景にはさっき「一部の東京の小劇場にある嫌な自意識」と言ったもの、なんというか舞台と客との間にある権力関係に無自覚なまんま、観客を「啓蒙」したり「教育」したり「新しいものに触れさせ」たりするつもりで一見面白いかもしんないけど実はすごいパターナリスティックな態度で舞台作りをしている精神、がある気がするからである。舞台と客という権力関係に根ざした舞台という環境があるからこそ、客に性的な暴力をふるってそれは犯罪ではない、パフォーマンスだ、と正当化できるんだろうと思うし、たぶんこの問題を起こしたパフォーマーたちやパフォーマーが好き勝手することを擁護する人たちは、この舞台が客を一方的に圧倒する権力関係を無意識に是認しているように思う。これはいい演劇とか悪い演劇という問題じゃなく、ただの犯罪の話だ、という人もいるようだけれど、こういう環境を創り出しているパフォーマーの意識自体を問題にしないと根本的な解決にはならないんじゃないのかな?

 また、こういう行為を見て面白がっていた観客についてもいじめを見て面白がるみたいな変な同調圧力を感じて若干気味が悪いのだが、とはいえよく芝居に行く人ほど、ここまでひどい客いじりはどうせ仕込みだろと思っていたかもという気もするので、一概には批判できない。劇団によっては危険な客いじりのため事前に劇団員の知り合いなどに事情を話して前の席に座ってもらったりすることもあり(私本人はそういことはないが友だちに頼まれた人はいた)、演劇オタクコミュニティでは仕込みの存在はメジャーだと思うから。


(4)おまけ
 …おまけといっては何だが、私が性的表現に充ち満ちているバーレスクが好きなのは、バーレスクは客もパフォーマーもこういう権力関係にすごく自覚的だからである。パフォーマーはお客さんの喝采がないと踊りも脱ぎもしないし、お客さんは喝采をコントロールすることでパフォーマーの演技を良くしようとする。私は権力に見せられてキャバレーに通っていると言っても過言ではないくらい、あの駆け引きが好きだ。


 それから最後に言いたいけど、被害にあった方にはほんとにすごく演劇関係者として申し訳ない気持ちを感じている。なんも悪くないのにひどいめにあって、きっともうお芝居なんか行きたくもないだろうと思う。そういうことは思わなくていいのかもしれないけど、なんかもっとこういうパフォーマーの奢りみたいなものをバンバン前から批判すべきだったんじゃないかとも思っている(私みたいな部外者が批判を書いても誰も読まないとは思うけど)。観客としては単純に怖くて悲しいし…