精神医学vsセクシャルマイノリティの抵抗〜ジョー・オートン『執事が見たこと』(What the Butler Saw)

 ヴォードヴィル座でジョー・オートンのファース(笑劇)『執事が見たこと』(What the Butler Saw)を見てきた。主演はブラックアダーのティム・マキナリー。

 ジョー・オートンは60年代にすごく人気のあった劇作家でイギリスではわりと有名だと思うのだが、1967年にゲイの連れ合いに撲殺され(連れ合いのケネス・ハリウェルも直後に自殺)、その生涯が『プリック・アップ』というタイトルでゲーリー・オールドマン主演で映画化されたりしたので作品よりもそっちのゴシップのほうが有名かもしれない。『執事が見たこと』は遺作で、死後の1969年に初演された。

 まあ話はとにかくトンデモない。舞台は60年代の精神科の診察室。プレンティス先生が新しい秘書の面接にきたジェラルディンに対して健康診断とか偽って服を脱がせようとしたところに妻のプレンティス夫人が襲来。ところがプレンティス夫人はホテルのポーターに浮気写真をとられて脅迫されており、このポーターを秘書に推薦しようとしている。プレンティス先生はジェラルディンを隠して妻に対応しようとするが、そこへフロイトかぶれの医療検査官がやってきて、プレンティス先生はこれまた自分の不適切行為を隠すためジェラルディンを患者だと偽る。ところがこの医療検査官がクセ者で、ジェラルディン(患者のふりをさせられている)は近親相姦の被害者だ!と決めつけて拘束しようとするなどやりたい放題。しっちゃかめっちゃかになった事態を片付けようとしたプレンティス先生はポーターに女装させて秘書のフリをさせるなどするがまあ全くうまくいくわけもなく事態は余計悪化、検査官はプレンティス先生は異常殺人犯で秘書を殺したんだと推測し、なぜか女装させられた警官まで巻き込んでとんでもないめちゃくちゃ事態になる…のだが、なんと最後、ジェラルディンとポーターはプレンティス夫人が結婚前にバイト先の停電中に遊んだ男との隠し子で、その相手の男はプレンティス先生だったということがわかり、強引に一件落着。

 …と、いうことであらすじをきいても何もわからないと思うのだが、とにかく展開が早くてメチャクチャで見ているほうもなんか実はよくわからない。とはいえ戯曲自体はおそろしくよくできており、シェイクスピアふうのめまぐるしい異性装取り違え+オスカー・ワイルドふうのすっとんだ風習喜劇(どんなとんでもない話でも強引にオチをつける!)+スウィンギングロンドンの雰囲気を彷彿とさせるダイレクトでナンセンスなギャグをたっぷり盛り込んだ笑劇でものすごく笑える。

 で、とにかくこの笑劇について注目すべきなのは、主要テーマが「精神科医の権力」だってことである。プレンティス先生はまあたぶん治療法についてはふつうの医者なんだろうけど権力をたてに秘書にセクハラするトンデモないエロ野郎だ。検査官は俗流フロイトかぶれの徹底的に戯画化された精神科医で、派手な症例を扱ったベストセラー本を出そうとしているらしく、相手が「いやいやそんなことはありません!」と言うと「その否定は明かな肯定の表れですね、ほんとは図星だと思ってるんでしょう?」とか(オートンのネタ本はおそらくフロイトの「否定について」)、プレンティス夫人が「さっきから裸の男がこのへんを走り回っているんです!」と本当のことを言っても「いやいやそれはあなたの潜在意識の産物でしょう」とか言って実際にケガした半裸のポーターが出て来ても「いやこれ単なる幻覚かもしれないし」みたいなことを言うなど、全部自分の専門知に基づく権力を使って状況を自分に都合がいいように解釈する。この精神科医の権力に対する諷刺が非常に辛辣でかつおかしい。
 
 権力をたてに患者を混乱させる医者(とくに精神科医)というのはモンティ・パイソンなんかにも出てくるイギリスのコメディのストックキャラクターのひとつなのだが、なんてったってこの芝居がフーコー以前にゲイの作家によって書かれた、ということは実に暗示的だと思う。あまり作品の内容を作者の伝記に還元する読み方はしたくないのだが、60年代にイギリスでゲイだというのはたぶん今よりもはるかにつらくて、「実はオレ、ゲイなんだ」と言ったら迫害されるか、よくても周りの人に「まーたまたぁ、一過性のもんでしょ、そのうち治るって」みたいに否定されたり、「あなたは成長のある段階にとどまってしまった未熟な人なんだね」みたいにパターナリスティックな態度をとられたりして、しかも精神医学のお墨付きが今よりもそういう態度を強固にバックアップしていた時代だったのだと思うのである。60年代にセクシャルマイノリティだというのはたぶん精神科医とかに「お前より自分みたいな専門家のほうがお前のことをよくわかっているんだから言うことをきけ」と権力を振りかざされる危険性が大変高かったのだろうと思う(今でもそういうことはあるのだろうが、少なくとも同性愛が治るとか言うような医者はヤブ医者だ、という認識がこの頃より広くあるはずだ)。そう考えるとこの芝居で精神科医、とくに俗流精神分析がコテンパンにやっつけられているのは非常に納得がいくし、ある意味ゲイの権利意識に根ざした作品なんだと思う。全体的にこの芝居は単なるしっちゃかめっちゃかのようで、性に関して何が正常で何が異常かを医学が決めることに対する手厳しい諷刺に満ちあふれている。

 と、いうことで、戯曲自体は素晴らしくよくできていて今でも古くなってしないし、お客さんも全裸の男子が走り回るドタバタと機知に富んだセリフに大喜びだったのだが、演出がこの笑劇の転覆的で過激な機知をちゃんと引き出しているかというと若干疑問。ものすごい浮気性なのにしょっちゅう「私、レイプされたの!」と言い張っているプレンティス夫人とか、一見ミソジニーの塊のようなキャラクターだけどこの戯曲の中では実はけっこうまともな人でかつ権力のない女性として不利な立場に置かれているからそういうことを言うのだ、という視点もあるので、もっとドラァグクイーンふうに作って「不利な立場におかれた女性の不満と狡猾」みたいなのを強調するように作ったほうがクィアな感じになって良かったのではという気がする。あと第二幕の最後のほうとかちょっとギャグが大袈裟すぎて笑えなくなってしまったような感じもあり、演出には疑問が残ったなぁ…

 しかし、誰かこれとフーコーの精神医学関連の論文を読み比べて時代背景にのっとった比較をする、とかいう論文を書くべきだと思う。精神医学の歴史に興味のある方にも超オススメの作品です。