「どうして高度な数学を必修にする必要があるの?」フォローアップエントリ+余暇と公教育

 「「代数は必要ない」:全米を揺るがしたある教授の主張」という記事(あまり翻訳はよくないかも)を読んでいろいろそれから議論が派生したので、まとめを作ってみた。

「「代数は必要か?」から発展して、「どうして高度な数学を必修にする必要があるの?」」
http://togetter.com/li/359614


 まず私の前提として以下の三点がある。
前提(1)もちろん、全く数学教育をしなくていいと言っているわけではない。私が想定している「高度な数学」は二次方程式以降のいくつかの単元あたりで(具体的には対数とか複素数とか。これは議論の余地があるだろうが)、四則演算とか基礎的な統計・グラフの読み方などを必修から外すべきだとはもちろん思っていない。
前提(2)自然科学・医学・数学・経済学・一部の哲学や社会学などを学びたいという生徒にはもちろん数学教育を継続する意味がある。また、自分が将来やりたいことに関係なくても数学をやってみたいという生徒にも数学教育を継続する意味がある。私が数学教育の継続を疑問視しているのは、それこそ上の記事であがっているような人文科学や美術を学びたいと考えている生徒でしかも数学が全く面白くなく、理解ができない(入試に受かる以外にモチベーションがない)という人たち。
前提(3)数学以外の科目についても、これから生徒が学びたいと思っている分野に関係がなく、生徒がモチベーションを見いだせない分野を継続的に教育したり、入試で課すことには非常に疑問がある。


 とりあえず私の疑問点としては、
疑問(1)「数学が論理的思考を鍛えるのに役立つ」という場合、「論理的思考」の定義は何か?
疑問(2)「数学が論理的思考を鍛えるのに役立つ」というのは直観的にはある程度正しそうだと思うのだが、どの程度データで裏付けられているのか?
疑問(3)これを理由に高度な数学教育を全ての生徒(もともと数学が嫌いであるとか数学を利用する職につく予定のない生徒)に継続的に行うべきだ、という主張には妥当性があるのか?
疑問(4)もともと数字が苦手だという生徒がたくさんいるのに、こういう生徒に数学で論理を教えるというのはほとんど有効性がないのではないか?こういう生徒には数字を使わず論理が学べる修辞学的な教育に力を入れたほうがいいのではないか?

 という四点が最初にあった。

 で、この議論から得られたものとしては
A(1)数学でいう「論理」は非常に厳密で形式化されたものであり、日常生活で用いる物語的論理(物事の因果関係とかを騙されずに理解したり説明したりできる)とはかなり異なるものである。むしろ日常生活で「論理的」っていう言葉を使うのがよくないのかも。「説得的」とか「筋が通っている」という日本語のほうがいいかもしれん)。
A(2)このあたりの研究で良いものはちょっと紹介してもらえなかった。ただ議論をしていてやはり直観的にある程度正しい、という私の前提は別に崩れなかった。ただし「多数の人にこれが適用できる」とは私は考えてないし、経験的に言うと私は数学で自分の論理的思考が養われたという気が全くしておらず(これはあとで記載する私の特殊事情も関連あると思うが)、大学に入ってから受けた修辞的な訓練のほうがよっぽど役に立った、なぜああいう修辞の訓練を高校とか中学で受けられなかったのか、と考えている。
A(3)そもそも「論理的思考を養うために数学教育を継続する」というのは単なるエクスキューズにすぎないニセの論点で、国家に役立つ人材を選別・養成することが数学教育の主目的なのではないか、という議論になった。しかしながらそうなると、将来数学を使う予定がないと予測しており、本人も数学に興味がない生徒に数学教育を継続するのは国家・教員・生徒全員にとってリソースのムダなのではないか?選別のために必要というなら既に因数分解くらいで向き・不向きはわかってしまうものでは?
A(4)修辞的な訓練はある種の生徒には論理的思考を身に着ける上で非常に効果的であろうと思われるのだが、数学で論理を身に着けるのと修辞で論理を身に着けるのどっちが効果的なのかとかどっちが楽しいのかとかはわからん。個人差も大きそう。

→結局、「論理的思考を身に着けるために数学が必要だから必修で全ての生徒に高度な数学教育を継続せよ」という主張に私は納得できなかった。

 はたまた「いつか必要になるかもしれないから」数学教育を継続すべきだというのもあったが、「いつか必要になるかもしれない」けど学校でやらないものはたくさんある。例えば日本に住んでるんなら地震と火山についてはいつか必要になるかもしれない知識に違いないのだが、地学を学校でがっつりやった人って少ないよね?それって高度な教育を継続するための説得的な理由になるんだろうか?


 しかしながら議論の課程で、数字が好きな人々と好きでない人々の間にある激しいギャップが明らかになったと思った。「役に立たないからやらないとかいうのはおかしい、楽しいからやるんだ」とか言っている人がいたのだが、私はできるだけ数字を見ないで暮らしたいと思っている人間なのでそういうのは全く直観として理解できない…し、数字が楽しい人がたくさんいるのは理解しているが一方で人に「楽しいから○○をやるべきだ」とすすめることに非常に倫理的抵抗があるのでこれはちょっといただけない。あと、まとめのコメント欄で出ている数字関係の「面白い話紹介」もちっとも面白くない。面白いと思う人がいるのはわかるが、私は面白くないし理解もできない。

 一番気になっているのは、数学教育継続を主張している人たちの間には「人間は皆数学が理解できる」というヒューマン・ユニヴァーサルへの信頼が非常にありそうだ、ということである(こちらの記事のコメント欄を参照)。そりゃ四則演算とか基礎的なグラフ読解とかは教育すれば大部分の人間が理解できると思うのだが、それって二次方程式とか複素数でもそうだと思うの?例えば文字の読み書きはちゃんと教育すれば大部分の人間ができるようになることだろうと思うのだが、崩し字を読んだり外国語を勉強するのって非常に得意不得意があるよね?私は「リテラシー」というのは教育さえすれば誰でも身に着けられるような基本的な読み書き計算技術のことだと考えているのだが、二次方程式とか外国語ペラペラになるのって基本的なリテラシーというよりは専門的な技術に入るだろうと思うのである。

 また、こういう「基本的なリテラシー」についても実はかなり能力のグラデーションがあるので、数学教育の継続を支持する意見を見るとそれってなんかいろんな差異を無視してないか、っていう気もしてしまっている。ディスレクシアとか共感覚者、あるいは音声言語でものごとを知覚しない耳の聞こえない生徒、ヴィジュアルに言語を知覚しない目の見えない生徒の知覚スタイルはそうでない人とかなり異なっていると思われるので、全員一律のカリキュラムで教育すること自体にまあ問題があるといえばあるのだが、高度な数学(数学じゃなくてもいいけど)教育を継続させることで少数派の知覚スタイルを持っている生徒が割りをくっているのではないかと思う。これは個人的経験の話になってしまうのだが、私は数字→色と文字→色の弱い共感覚があるがナンバーフォームズがないので、そもそも数字をあまり抽象概念として理解できていないと思うし(ヴィジュアルな色彩として知覚されるので)、計算をする時はごちゃごちゃした薄い色が飛んで非常にやりにくい(二次方程式のxを見ると「この数式はここだけ重くなっていてバランスが悪いなぁ」とか思っていた)。共感覚者というとダニエル・タメットみたいなサヴァンを思い出す人も多いので数学得意のイメージもあるようだが、ナンバーフォームズのない共感覚者だと数字がからっきしダメな人も多いはずだ(これはたしか論文があったがどっかにいってしまった…誰か持ってる?)。


 補足的な(しかしながら個人的にはもっと大きい疑問として)は、「どうして数学を余暇(仕事以外)で趣味としてやる人は外国語とか地学に比べて少ないのか?」というものがあって、実は私が高度な数学教育の必修継続を疑問視している理由としてはこれが一番大きいのかもしれないと思う。これは私の仮説にすぎないが、公教育と余暇というのはおそらく歴史的に不可分のものとして発展してきたんじゃないかと思っており、学校で習ったことの中から人々が将来余暇としてやることを選び、それが余暇のために市場を作る、という関係があるのではないかと予測している(ただし私の推論は18世紀英国で教育の発展とともに読書や美術なんかの趣味コミュニティが格段に発展したという例に基づいており、あとは漠然と古代ギリシャや江戸時代のイメージがあるだけなので検証はしてない)。数学が余暇として不人気っていうのはやっぱりこれは趣味にするには非常に専門的だからっていうのがあるんじゃないだろうか?余暇になりにくいものを必死に公教育で継続する意味あるんだろうか?この点については他の人ともっと議論してみたいのだが…