ジュリエット・ビノシュ主演、バービカン『令嬢ジュリー』〜やっぱこれ戯曲がダメなんじゃない?

 バービカンでストリンドベリの『令嬢ジュリー』を見てきた。これ、静岡芸術劇場で2010年にやったフレデリック・フィスバックのバージョンを同じスタッフでキャストをフランス版にしたもので、主演はなんとジュリエット・ビノシュ。フランス語に英語字幕がつく。

 とりあえずラモン・P・ベルジェがやったらしい舞台のデザインがやたらアーティスティックですごい。上のほうの席だったせいでイマイチ全貌はわからなかったのだが、とりあえず色は全部真っ白のつるんとした感じ。前方左は最小限のキッチン(コンロと棚つきのベンチしかない)、右はソファになっている。その後ろに透明な扉やカーテンの仕切りがあって奥は使用人たちがダンスをする平面になっており、ここには白樺みたいな木が何本かたっている。

 …しかし上演のほうはあまり楽しめず、とりあえず戯曲が悪いのだという結論に達した。なんというか、女がセックスしたせいで死んでしまうというどっかのくだらんメロドラマからエッセンスだけ抜き出してきたみたいな筋を1時間40分かけてやっているだけで、全体的にすごく性差別的なのである。とくにジュリーの母がフェミニストで、領地で女の仕事を男にやらせ、男の仕事を女にやらせたせいで領地が荒廃して…っていうあの下りはなんなのかね。そんなフェミニストめったにいねーだろ…妄想だけでフェミニストを攻撃している現代の保守派と何も変わらない(まあ、現代でもそういう妄想だけでフェミニストを攻撃してブンガクだとかシバイだと名乗っている著者はたくさんいるけど)。あとジュリーの性格造形が「自然主義」と銘打ってるわりには全然自然に見えなくて、「こんな女めったにいねーだろ」と思ってしまった(いやまあ自然主義の自然っていうのは日常語で言う自然だ、っていう意味ではないはずだが)。とくに最後自殺するところが私には完全に意味不明で、ジュリーが完全に狂ってるとしたら(まあ実に矮小化された狂気だが)、あそこで自殺するよりは相手の男を殺すほうが筋としてはきちんとまとまるんじゃないかと思うんだけど。

 ただ、やたら性差別的な作品だと思ったのは多分に演出のせいもある気がする。この作品のテーマはセックスだけじゃなく階級もあるはずなのだが、服装とか音楽、セットが完全に現代風になっているせいでジュリーとジャンの身分の差がわかりにくい。とくにこれは私がロンドンに三年住んでE・M・フォースターとかD・H・ロレンスばかり読んで毒されてるせいだと思うのだが、ニコラス・ブショーのジャンがとても好演してるにもかかわらず、結構年食ってる上にスーツ姿で丁寧なせいで全然「私が考えるワーキングクラスのセクシーな召使い」に見えないのである(!)。なんかただの上司と部下みたいで…

 ジュリエット・ビノシュはさすがにすごいなぁと思った。とくに前半のジャンを誘惑する場面の、フラれたばかりで気晴らしを求めている女とこずるい男がセックスするかしないかの微妙な応酬はすごいリアルでセクシーだなと思った。しかし最後のほうはちょっと中年男女の泥沼みたいになってしまったように思うのだが、この芝居のテーマからしてそれは適切なんだろうか…この芝居って若くて世間知らずの女の性的欲求不満の話なんじゃないの?

 しかしこんな性差別的な芝居が未だに古典として上演されてるって、もう再演しなくていいんじゃないかと思ってしまった。別に役者や演出家が何の古典を再演しようがそれは選択の自由だが、ずーっと古典の戯曲ばかり読んでかつ舞台でもそういうのを見ていると「もうこれ再演しなくていいだろ、もっと再評価されるべき戯曲が他にあってそっちに貴重な才能と資金をつぎ込むべき」と思う瞬間がよくある。『令嬢ジュリー』は1888年に書かれたらしいが、この間見たイプセンの『人形の家』は1879年、『ヘッダ・ガブラー』が1890年だということを考えると『令嬢ジュリー』は19世紀末の戯曲としても古すぎると思う。