イングリッシュナショナルオペラ『魔笛』〜『戦艦ポチョムキン』と比べよう!

 イングリッシュナショナルオペラでニコラス・ハイトナー演出の『魔笛』を見てきた。1988年に初めて製作された人気のヴァージョンで、今回が最後の再演になる予定だとか。


 前回ドイツ語版をロイヤルオペラで見た時は話が意味不明で洗脳カルト入信をすすめる内容に見えてはっきり言って怖かったのだが、今回英語で見ると「これ何に似てるかっていうと『戦艦ポチョムキン』に似てる」って気がした。その心は、「形式満点、内容ゼロ」'all form and no content'(by スタンリー・キューブリック)。


 とりあえず、このオペラのあらすじはいろんな神話をしっちゃかめっちゃかに合成してあるだけでほとんどフリーメーソンプロパガンダのように見えるし(演出によって回避することも可能だろうが)、場面場面はモーツァルトがヒット曲を書ける+一座の看板歌手が得意分野をアピールできるシチュエーションを繰り出すことだけを考えている感じで、ドラマとしての緊張感とか統一感が全くないように見える。とくに後半の「沈黙の修行をしているタミーノのせいでパミーナ絶望→その後またパミーナがタミーノと会って別の修業に送り出す→なぜかパミーナまた絶望→どういうわけだか2人で試練に向かう」 のところはひとつひとつの場面にはきれいな音楽がついて完結しているんだけど、場面同士は全くつながっていなくて、よく不出来なジュークボックスミュージカル批判とかで言われる「歌を導入するためだけの展開」になっているように見える(失恋の歌をパミーナに歌わせることでモーツァルトお得意の切々とした歌が繰り出せるし、ソプラノ歌手の演技を引き出すこともできるから)。夜の女王の性格が前半と後半で違うのも、優しい歌と激しい歌両方をコロラトゥーラソプラノに歌わせるためのあて書きなんじゃないかと思えた。パパゲーノが出てくる場面の台本はどういうわけだかどこも非常によく書けていると思ったのだが、これは初演では台本作者本人がやったらしいし、散文のセリフと歌の両方がこなせる役者向けのあて書きだよね(サヴォイオペラの喜劇的な男役とかに似てると思う)。

 で、これをストレートプレイと比べると、ふだんシェイクスピアやらベケットやら相当に不自然な話を見慣れている私でも「この台本の出来だとストレートプレイなら断然駄作扱いだろ、音楽とパパゲーノのとるお笑いだけで今まで生き残ったんだな」と思ってしまうのだが、映画と比べると実は似たようなものは結構あるような気がする。キューブリックが言うとおりエイゼンシュタインの映画とかがいい例だと思うのだが、場面場面が視覚的効果の高い華麗な映像技術を繰り出しすためだけに機能していて、話の内容のほうはえらく凡庸というか「それただのプロパガンダでしょ」だったり「何なのこの単純すぎる話は」だったりする映画はけっこうある。『魔笛』もプロパガンダ的なところが多分にあるし、モンタージュとか斬新な編集技術のかわりに音楽を繰り出すためだけに作られたんだとしたらなんかかなり納得がいった。『魔笛』は『戦艦ポチョムキン』だ!(いや、『戦艦ポチョムキン』はまだ「食い物の恨みは恐ろしい」っていう統一的テーマ?があったから『ストライキ』とかのほうがもっと似てるかな?)

 と、いうわけで、戦艦ポチョムキンである『魔笛』だが、ニコラス・ハイトナーの演出はお笑いをふんだんにちりばめたドタバタ喜劇風味(それこそサヴォイオペラっぽいかも)にして統一感を出そうとする一方、パミーナを肝のすわった強い女性(Elena Xanthoudakisという発音が難しい名前の歌手なのだがすごく演技できる)に演出して最後「夜と昼の世界が弁証法的に統合されました」みたいな感じにしているなど、話をきちんと収拾しようとする努力がたくさん見受けられてけっこう見やすかった。魔法の笛につられて森から着ぐるみのクマが出て来てまるでマタタビを見つけたネコのようにメロメロになってしまう場面などは大爆笑だし、一方で最後の火の試練の場面ではパミーナが力強くタミーノを先導するとか、女の力と男の力の統合みたいなものが表されてると思う。まあしかし一番おもしろいのはやっぱりパパゲーノで、二枚目半ふうなダンカン・ロックのパパゲーノは見ていて実に幸せな気分になる。