オールドヴィック『キス・ミー・ケイト』〜演出と音楽は素晴らしいが脚本がダメだと思う

 オールドヴィックで『キス・ミー・ケイト』を見てきた。言わずとしれたコール・ポーターの有名ミュージカルで、原作はシェイクスピアの『じゃじゃ馬慣らし』。『じゃじゃ馬慣らし』ミュージカル版をブロードウェイで上演しようとする劇団を描いバックステージもので、まあ簡単に言うとペトルーキオ役のフランクと、元妻でキャサリーナ役のリリがよりを戻すまでを初演と並行して描いている。

 プロダクションの出来自体は大変良い。トレヴァー・ナンの演出はテンポが良くて楽しめるし、スティーヴン・メアの振付は大変ダイナミックで、本筋に関係なくて下手するとだれてしまいそうな'Too Darn Hot'のところはジャズ風味を強調したダンスで引き締めたり、お客さんを飽きさせない工夫が至るところにある。ロバート・ジョーンズの、旅一座ふうに布を使って天幕から木まであらゆるものを表現する簡単だが見栄えのするセットデザインもとても効果的だ。役者はみんな歌えるし踊れるし、笑わせるところも心得ている。あともちろんコール・ポーターの音楽は文句つけようもない。

 しかしながらこれ、脚本自体が不出来なんじゃないか、と私はかなり強く思ってしまった。まず『じゃじゃ馬慣らし』を下敷きにしているというところが第一の地雷である。ご存じのとおり『じゃじゃ馬慣らし』は反抗的な妻を夫があの手この手で大人しくさせるというもので、非常に性差別的な内容の芝居だ。まあこの芝居についてはいろいろ議論があり、これは別に性差別的な内容ではない、キャサリーナとペトルーキオは相思相愛になったのだ、という批評もなくはないのだが、実は私はこういう批評に説得力を感じたことは一度もなく、この手の擁護的な批評のほとんどはシェイクスピアをこき下ろしたくないという権威主義かダメポストモダン批評かうんざりする恋愛至上主義のどれかに見える。これは妻を抑圧したがる夫を諷刺したものだ、という批評もあってこっちは若干説得的である気もするのだが、そうだとしたらこの戯曲は不出来すぎてその目的を達成することに成功してないと思う(といううか『じゃじゃ馬慣らし』と『間違いの喜劇』は陳腐なストーリーを適当に味付けしただけで台詞も弱くシェイクスピアの戯曲の中でもとくに不出来だと思うし、とくに『じゃじゃ馬慣らし』については似た戯曲が他にあるとか枠物語の設定になっているのに最後に枠をしめる構成がないとか非常にテキスト成立過程自体に問題があると思うので、ほんとにこの形でルネサンス期に上演されたのかも若干怪しいと思っている)。まあそういうわけで『じゃじゃ馬慣らし』は実に不出来で性差別的だと私は思っているのだが、『キス・ミー・ケイト』の台本はどうにかこの性差別ぶりを回避しようと妻であるリリのほうに最終的な選択権みたいなものを与えているのだが、実際のところこの描写は全くうまくいっておらず、最後にリリがDV男のフランクのところに戻ってくる理由が全く説得力を持って描かれていない(フランクはさっぱり反省しているように見えない)。「女が結局暴力夫のところに戻ってくる」って、相変わらずロクでもない話だよね。

 あと、私がこの台本についてもう一点決定的に気に入らないのは、リリが舞台上演に私生活の怒りを持ち込み、フランクがそれに乗って舞台で暴れて…っていうところである。役者っていうのはもっとプロ意識を持ったものであってほしいとファンとしては思っているし、女優が舞台上でヒステリー気味に…とかいうのもミソジニーを感じて不愉快だ。ああいうナイーヴな私生活と舞台の重ね合わせっていうのは実にアメリカ的な舞台観だ、とか悪口を言いたくなっちゃうな。

 まあそれでこの上演はそういうミソジニーを回避するような演出にはなってなかった。最後にリリかキャサリーナとして歌う服従の歌はストレートすぎて全く皮肉がないし、あと助演女優であるロイスの役どころがブロンドの大根女優になってるところとかさらにミソジニーを強化していると思う。映画版『キス・ミー・ケイト』ではこの役はアン・ミラーだったのだが、派手なショーガールではあってもこの上演ほどアホっぽくなかったと思う。