Shakespeare and Elizabethan Popular Culture (『シェイクスピアとエリザベス朝の大衆文化』)

 Stuart Gillespie & Neil Rhodes, ed., Shakespeare And Elizabethan Popular Culture (Arden Critical Companionsシリーズ, 2006)を読んだ。

 シェイクスピアとエリザベス朝時代の大衆文化の関わりに関する論文が幅広く入っていてとてもいい本だが、とくに良かったのはヘレン・クーパーの「シェイクスピアとミステリープレイ」及びダイアン・パーキスの「シェイクスピア、幽霊、ポピュラーフォークロア」である。

 ヘレン・クーパーは中世劇の重鎮なので地道に中世劇がシェイクスピアに及ぼした影響を論じるわけだが、アリストテレスの『詩学』に出てくる三一致とかについて、「芝居が存在するのにそれを支える理論は必要ない、理論が芝居のあとに存在しているのだ」みたいなことを指摘しているところが非常に面白いと思った。たしかに、アリストテレスの三一致はギリシャ悲劇というローカルな演劇体系を記述するシステムとして発達しただけで中世劇とかはそれから完全に離れて成立したものであり、これを三一致にのっとってないとかそれ自身の理論を持たないということで軽視する傾向は同時代どころか現代にすらあるが、これは後世への影響を考えると全く的確な態度ではないわけである。「批評理論というのはある体系を記述するためのものであって、理論に沿って分析できない作品を否定するものではない」というのは常に覚えておかないといけないことだと思う。

 ダイアン・パーキスは『ハムレット』に出てくる幽霊描写がフォークロアから受けている影響を論じる中で、スティーヴン・グリーンブラッド他新歴史主義批評が意外にエリート主義的だというところを明らかにしているのが面白いと思った。新歴史主義批評では芝居が書かれた当時支配的であった知の体系にのっとって芝居などを分析することが多々あり、たしかにシェイクスピア宗教改革を取り巻く神学論争やら哲学やらから全く影響を受けてないわけではないだろうが、あまりにもそちらに拘泥してもっとはるかに広く人口に膾炙していたであろうそこらの怪談なんかの伝統を無視するのは実に片手落ちである。これはこの間の藤澤論文に出て来ていたソネット集に出てくる蒸留の比喩は錬金術なのか家庭で行われていた一般的蒸留なのか、という話とも共通した議論だと思う。一般家庭の技術やおとぎ話なんかはエリート層の学術的議論とかに比べて影響力があるわりに文書として残らないし、ここは非常に注意が必要な問題である。