Lynn Enterline, Shakespeare's Schoolroom: Rhetoric, Discipline, Emotion

 Lynn Enterline, Shakespeare's Schoolroom: Rhetoric, Discipline, Emotion (University of Pennsylvania Press, 2012)を読んだ。

 シェイクスピアの作品と16-17世紀初頭のイングランドにおける教育カリキュラムとの関係を考えよう、ということで着眼点は面白いし、内容にも教育と性的誘惑の関係とか興味深いことも結構書いてあるのだが、どうも私の興味を削いでしまうところが二点あってそんなにやる気出して読めなかった。

 まず、この本はケント・カートライトをもとに、道徳劇みたいな大衆文化の伝統が与えた影響に比べて人文主義的教育の英国ルネサンス演劇に対する影響がきちんと評価されてないからそこをやります(p.14)、みたいな話をたてているのだが、少なくとも私は現在の時点ではそもそもこの前提自体がなんかちょっとおかしいような気がする。この間レビューしたShakespeare And Elizabethan Popular Cultureでは、新歴史主義の批評は芝居が書かれた当時支配的であった知の体系にのっとって芝居などを分析するのが得意である一方で怪談とか小唄みたいな大衆文化まで手が回らないケースが多々あるみたいな指摘がなされており、むしろこの本の前提とは逆の前提になっていて、私の感覚だとShakespeare And Elizabethan Popular Cultureの指摘のほうが一利あるように思える。また、最近流行りの錬金術と英国ルネサンス文学の関わりの調査とかはまあ正統的な人文主義教育とは違うかもしれんけど相当知識人の文化の一端を明らかにしてくれていると思うし(イタリアの人文主義錬金術についてはこちらなどを参照)、あとソース研究のほうでもシェイクスピアラテン語の種本とか伝統的にたくさん研究されているように思うので、視点は若干少し違っていても人文主義とその周辺の知識人文化とかの影響っていうのは実は結構やられてるんではないのか?カートライトの10年以上前の議論をひいてそれに対する補強もなく人文主義の影響をもっとやる必要がありますね、というのはどうなのかね?別に人文主義教育の影響を研究するのは非常に必要だし面白いとも思うのだが、こういう議論の前提でいいのか、いくらでもこの分野を研究すべき理由はありそうなのに中でもとくに説得力がないものを持ち出しているのではないか、と思ってしまう。

 もう一つの問題はこの本が2012年にもなって精神分析の用語を文芸批評で使用しているっていうことである。私は個人的に精神分析批評は何が面白いのかさっぱりわからず(あれは何か芝居の上演を面白くすることがあるの?)、精神分析に影響を受けた書き手のものを分析する時以外に精神分析の用語を使うことには非常に疑問を持っているので、ラカンとかラプランシュとか出てくるところはほとんど真面目に読む気がしなかった。