『アメリカン・イディオット』〜60年代ガールポップの後継者としてのグリーンデイ

 ハマースミスアポロでグリーンデイのアルバムに基づいたロックオペラアメリカン・イディオット』を見てきた。曲は二枚のコンセプトアルバム『アメリカン・イディオット』及び『21世紀のブレイクダウン』からとってきている。主筋は『アメリカン・イディオット』に沿っているが、他にふたつ脇筋がある。

 で、楽曲のほうはもちろん素晴らしいしもともと『アメリカン・イディオット』はきちんと話があるので基本的なストーリーラインはいいはずなのだが、アルバムで曖昧になってたところの処理とかがイマイチ垢抜けないなあと思うところも多数あった。とくに主筋である田舎から街に出て来たジョニーが自分のオルターエゴである聖ジミーにドラッグと酒にまみれた生活に引きずり込まれ…っていうところは、歌をきいているだけだとそうでもないのだが実際に舞台でやるとあまりにも『ファイト・クラブ』っぽくなってしまって若干オリジナリティが感じられなくなってしまう。ロックオペラってやっぱり台本を作るのが大変なのかなぁ…こういうところも含めて台本・演出はもっと全然良くなるように思うのだが。

 …で、それ以上にびっくりしたのは、実はグリーンデイのヴォーカルであるビリー・ジョー・アームストロングはすごい歌が上手かったのだ、ということである。普段アルバムを聴いてる時は全然気付かなかったのだが、ビリー・ジョーってラモーンズジョーイと同じくポップなセンスに優れていて、ある意味60年代ガールポップに通じるような正確で滑らかな節回しができるのな。キャストはみんな頑張っているのだが、普通のロック男声にビリー・ジョーの歌を歌わせるとそのへんの微妙な表現力がかなり失われてただテンション高いだけ、ひどい場合は単調に聞こえることがたまにあり、「ああそうか、グリーンデイの歌ってエネルギーで押すだけでは無理なんだな」と思ってしまった(もちろんCDだと何テイクもやって出来の良かったものを採用できるので生歌と比べるのは酷、というのもあるのだろうが、少なくともライヴ録音とかでもビリー・ジョーって節回しが非常に正確じゃない?)。ビリー・ジョーのヴォーカルスタイルがU2のボノに影響を受けているのは周知の事実だと思うのだが、低音が持ち味のボノに比べてビリー・ジョーは高めの音域を正確に出せるのでそのへんも男声には難しいのかもしれない。しかし女声キャストのほうはかなりグリーンデイの歌をナチュラルにこなしており、実はグリーンデイは女歌なんじゃないか疑惑が私の中で浮上した(あるいは、グリーンデイを表現力豊かに歌うには男声ではロックじゃなくジャズとかスタンダードを歌う訓練が必要なのかも)。U2もそうだが、パンク男声って一聴ヘタクソで簡単そうに聞こえるけど実際に歌うと難しかったりするんだね。

 で、ビリー・ジョーのヴォーカルには60年代ガールポップ的なセンスがある、という話の延長線上にあることとして、グリーンデイのジェンダーの扱いはいつもながら非常に曖昧で興味深いと思った。三つの筋は全部男女関係を正面から扱っていて、たぶん主筋が脇筋ふたつを止揚するような構成になっている。脇筋(1)のタニーは軍に志願して負傷してボロボロになって帰ってくるのだが、The Extraordinary Girl(「すごく特別な女の子」)という名前のないEvery Woman的な女性に助けられて回復し、故郷に戻ってくる。脇筋(2)はガールフレンドのヘザーが妊娠したことを知って故郷に残ったウィルの家庭生活を描くもので、酒浸りのウィルに愛想をつかしたヘザーを子供を連れて出て行ってしまい、セクシーな新しいボーイフレンドと一緒に戻ってきて、ひどく寂しがっているウィルに子供を譲るというオチであり、ここに出てくるヘザーはEvery Womanどころかえらいリアルな女性像で全く幻想がつけこむ余地がない。それで主筋だが、主人公であるジョニーは名前のないこれまた若干Every Woman的なWhatsername(「名前不明」ちゃん?)という女性と激しい恋をするがドラッグまみれの生活のために彼女に捨てられ…ということになるんだけど、これはまあ男性の詩によくある女性のミューズとしての客体化、女性礼賛という側面がある一方、反抗心と知性を兼ね備えたライオットガールたちの抽象化でもあって(ビリー・ジョーはビキニ・キルの'Rebel Girl'をヒントにこの話を考えたとか)、脇筋(1)のファンタジー的なThe Extraordinary Girlと脇筋(2)のリアルなヘザーを統合する女性像なんだろうと思う。最後にこの女性にフラれたジョニーが立ち直るところとかはロックの歴史を考えるとなかなか興味深いところでもある(予想だけど、ライオットガールなしでは主流パンクは酒と薬に溺れる自己破壊に突き進んでいただろう、ってことなのかもしれない)。しかしながらちょっと演出が照明とかダンスに偏りすぎていて(このあたりはとてもいいのだが)、繊細な心理表現を軽んじているフシがあるため、このWhatsernameの描写がイマイチはっきりしないような気がしたのがよくないな…

 そういうわけでミュージカル『アメリカン・イディオット』はまあもちろん八方ふさがりである若者のつらい生活を描いた政治的作品であるのだが(これ、音楽がなかったらほんっとに救われないくらーい話で、むしろ『ガンモ』とか『ゴーストワールド』に近い話だと思うぞ)、それだけではなくて、アメリカ社会において男性であることの特権と苦しみの両方を女性との関係を通して描くことでジェンダーの問題をかなり意識的に問う話なんじゃないかという気がする。ビリー・ジョー性的指向の社会的なカテゴリ分けとかに結構真剣に疑問を呈しているのは有名だと思うのだが、まあうまくいってるかは別としてこれもそういう社会における男性性への疑問を描く試みなんだろうなって気がする。

 あと、これは作品を見て単に感じた印象なのだが、パンクって所謂マスキュリニティの音楽であるように見えて、それを相対化するものとしてのマスキュリンでないものを絶対的に必要としてるように思う。これは私のロック歴史観に関係あるのだが、パンクに特徴的な態度って体制的なものを笑い、その中にとらわれている自分をも笑うユーモアのセンスであって、ロックというものが伝統的にマスキュリンな音楽として自己を定義しているんなら反体制的・内省的なパンクにはそれを客観的に問い直す姿勢が必要とされるわけである。それでイギリスだとパンクはグラムの直系子孫なので(グラムもパンクもマルコム・マクラレン&ヴィヴィアン・ウェストウッドのモードを採用してるからね)、そこからアンドロジニーや皮肉屋のダンディズムみたいなものを輸入すればよかったわけだが(U2とかだってTレックスの影響かなりあるでしょ)、この路線がほとんどニューヨーク・ドールズ一発だけで終わってしまい、グラムがサッパリだめだったアメリカはそれがない。そういうわけでラモーンズやブロンディ、あるいはグリーンデイみたいなアメリカのパンクバンドは60年代ガールポップ的な要素をマスキュリンならざるものとして取り入れているように思うのだが、それってどうだろうか…

 あと、この話に関連して「宗教改革でわかるロック」を改訂したので、こっちも是非見ていただけると。