ドウォーキン『インターコース』

 なんとこの年になって初めてアンドレア・ドウォーキンの『インターコース』をちゃんと最初から最後まで読んだ。

 とりあえず、もっと早く読んでおけばよかったと思った。前半の大部分は小説や戯曲などを対象とした女性と性の表象史分析で、ひとつひとつの文学作品の鋭い読解には目を見張るものがある。とくに第三章はテネシー・ウィリアムズを扱っているのだが、あのウィリアムズの「人の嫌がることをすすんでする」感じの根源みたいなものを性表象の観点から明快に解き明かしていて、非常にウィリアムズ論として説得力があると思った。文芸批評を多用する書き方はそれこそシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』からあるフェミニズム書籍のスタイルなので、形式のほうは古典的と言ってもいいくらいだと思う。

 政治的議論のほうも、実を言うとそこまで私は特殊なものとは思えなかった。この本はよく「すべての異性愛性交は強姦である」と言ったということで批判されているらしいのだが、このとおりの文言はこの本にはないし、またこういう内容をもっと長く言っているらしいところも別段見つかなかった。この本が問題にしているのは過去のフェミニストや自由を愛する人々が不断の努力によって改善につとめてきたにもかかわらず、性行為がはかり知れない男女間の不平等と女性への激しい暴力に必然的に結びついてしまうにっちもさっちもどうにもならない状況であって、過去にセックスをもっとマシなものにするため行われてきた様々な思索や活動に対する肯定的評価とかもこの本には含まれている(pp. 217-40)。あと、この本は全体として、一見自然とか当然と考えていられているものを問い直そうとしているので、そういう本に「すべての異性愛性交は強姦である」というような本質主義的表現がフィットするということはあまりなさそうなことに思える。そりゃまあ細かい各論とか檄文的なスタイルについてはいろいろ疑問点もあるし、とくに文芸表象から社会に大きく話を広げすぎではないかという批判はあると思うのだが、いつも舞台で剥き出しの肉体を見ながらそれとどう対処すべきか悩んでいるうちら舞台芸術研究者とかにとってはこの本で論じられているような諸問題は当然の問題意識に基づくものであるように思う。

 と、いうわけでとりあえず第三章のウィリアムズ論だけでも読む価値があると思うのだが、どうもあとがきによると文献表がカットされてるらしい。そりゃ本が高くなるのかもしれないけど、そういうのってあまりよくないと思う。