米谷郁子編『今を生きるシェイクスピア』

 米谷郁子編『今を生きるシェイクスピア』(研究社、2011)をやっと入手して読んだ。

 とりあえず博論を書く前にどうにか入手して読んだほうがよかったかもと思った。同じアダプテーションを扱っていても私とはかなり関心のあり方が違うのだが(うちは情報伝播とか知識の流通経路という点からアダプテーションに関心を持っているので)、権威とかそういうものから離れてアダプテーションを考えるというのは非常に共感できる視点だと思ったし、現代のシェイクスピアアダプテーションをかなり手広く扱っており、個々の作品の分析も興味深いものが多い。

 しかしながら私が疑念を持った、というか以前から非常に疑問を持っているのは、クィアセオリーとアダプテーションの話を結びつけるのって牽強付会、というか抽象概念と具体物を混同してないか、ってことである。この本はかなりクィア理論に拠っていてそれは非常に気に入ったのだが、ジュディス・バトラーに倣って「あらゆるジェンダーアイデンティティの本質は『パロディ』であって、『オリジナルなき模倣』である」というのはまあそうだと思うんだけど、その後「オリジナル幻想を伴う『アイデンティティ』を『原作』に、『コピー』を『アダプテーション』に読み換えると」(p. 34)って、私それ読み換えられないと思うからである。なぜかというと「アイデンティティ」っていうのは行為とか考えとか抽象的に存在するものであるが、戯曲やら詩やらの個々の作品っていうのは一応、具体物として物理的に完結して存在する個体であって、言ってみれば一人一人の人間のアイデンティティのハコとしての物理的肉体に近いモノだと思うからである。私の考えでは、一人一人の人間の物理的肉体がオリジナルであると同様に個別のテクストというのは全てオリジナルであり(個体としての人間とそのアイデンティティってまた違う概念でしょう)、だから親戚関係とか友人関係を用いた類推(任意の基準とする作品を0としたときに1, 2, 3...とか情報の伝達経路をたどってどこに何の作品が介在してるか相対的なチャートが作れる)が有効だと思うんだけど…いやまあなんかうまく言えないけど、ジェンダーアイデンティティと原作→翻案の話を一緒に論じるのはどうもピンとこない、ということである。