身体的排出としての告白〜Allison K. Deutermann, 'Hearing Iago's Withheld Confession'

 ↓下の本に入っているAllison K. Deutermann, 'Hearing Iago's Withheld Confession'(pp. 47-63)を読んだ。

 この論文は、初期近代において、話し手の考えを直接的に偽りなく伝えるものとしての告白(告解、confessions)が、息や音といった身体の中にある物質を排出して体を清めるかなり肉体的なプロセスとして特権化されていたことを手掛かりに、『オセロ―』における告白がどのように機能しているかを見ていくというものである。タイトルロールのオセロ―は告白というのをそうしたものだとして真摯に受け取っており、自分が告白するときは本当のことを言うしイアーゴーが「告白」するときもそれは真摯な身体的排出のプロセスだと考えているので、イアーゴーが告白的なしゃべり方で排出した内容を真正なものと思い、それを自分の肉体に取り込むように信じるが、イアーゴー自身は「告白」という言葉から法や魂に関わる清めの排出としての意味を一切抜き取って考えており、さらに最後は口をつぐんでどうしてデズデモーナ殺しを計画したかの理由を告白することを拒否する。こうした点において『オセロ―』は最後の場面で期待される「告白」がなく、非常に狭く詰まったような息苦しい印象を与える芝居である、ということが述べられている。最後にイアーゴーの告白がなく、オセロ―の告白と他の人々の二人称・三人称によるイアーゴーの行動に関する説明だけがあるという点でこの作品は一般的な復讐悲劇の型からはかなり離れたものであり、独自の発展を遂げたものであるともいえる。

 これは『オセロ―』の終わり方のなんとなく不愉快な寸詰まり感を分析する論文としてはかなり面白いと思うのだが、ただ『オセロ―』がどの程度復讐悲劇か、っていう点については議論の余地もあると思う。

関連:「『マクベス』における感染する恐怖〜Allison P. Hobgood, 'Feeling Fear in Macbeth'