村の緑を守る会訪問記〜『社会運動の戸惑い』

山口智美、斉藤正美、荻上チキ『社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(勁草書房、2012)を読んだ。

 一言で言うとこの本はフェミニストの研究者による「村の緑を守る会訪問記」である。問題意識としては、フェミニズム的な動きに対抗しようと各地方で起こった「バックラッシュ」的な社会運動(←私が「村の緑を守る会」と呼ぶもの)について、その担い手が実際にはどういう層なのか、レッテル張りに終始しないで記述しようということと、あと現在の日本のフェミニズムに対する内部批判という二つがある。

 それで、私なんかは政治的に地域主義者かつフェミニストであるので、地方政治の非常に詳細なルポルタージュという点でとくに第二章から第六章あたりが面白かった。田舎に住んでいると地方政治というのは地元密着である一方黒いところがあるというのがなんとなく意識される瞬間が誰にでもあると思うのだが、そのあたりをかなりダイナミックに記述していると思う。こういう一般向け書籍で、学者が条例やらなんやらが成立する際の駆け引きやら攻防やらをかなりきちんと面白く記述しているというだけで読む価値あると思う。

 とくに第五章は福井県生活学習館ユー・アイふくいに対する保守派による図書撤去要求が主題なので、図書館情報学、とくに地方における社会教育に興味ある人も絶対面白いと思う。欲を言えばもっと図書館における検閲や図書館及びその類似施設の位置づけに関する議論がほしかったところだけど(私はこれを読んでこの話はかなり一般的な検閲の話だと思ったので、そういう意味で私は243ページにある「男女共同参画というテーマでの強みを活かしきれなかった」という評価にはちょっと疑問がある)。


 結論部分(p. 334)にある「本書の主張」5つについてはおおむね同意するのだが、二つめと三つめについては表現方法がよくないと思う。私は演劇史をやっててフェミニストなのでいわゆる「文化」を対象にしていると思うのだが、こちらからすると文化を対象にしたフェミニストなんていうのは超傍流で「文化やコミュニケーション、振る舞いや内面の批評ばかりへと、フェミニズムの対象が偏っていてよいのか」というのはかなりピンとこない表現である。しかしこの主張はとくにそういうことを言いたいものではないのだろうと思うので、もっと明快に誰でもピンとくるように表現できるんじゃないのか?あと三つめについて、「貧困や暴力、差別や排除など、具体的な危機が多数ある中、『ジェンダーの危機』ばかり叫んでいてよいのか」とあるのだが、これもたぶんそういうことを言っているのではないんだけれども、よくある「フェミニストは貧困の話をしない、一般的暴力の話をしない」という単なるいちゃもんと通じてしまいかねない表現なので、「ジェンダー関連の用語に関する論争に終始するのではなく…」みたいなことをもっとはっきり書いたほうがいいのではないかと思った。

 しかしながら全編通して若干物足りないのは、この本はたぶん性質としては詳細なルポルタージュであって、それ以上の分析が少ない、ということである。これ、本来はジャーナリストがやるべき仕事だと思うんだけれども、たぶんそういうことをやろうというジャーナリストが少ないからエスノメソドロジーとかそういうことをやる学者がかわりにやっている。となると、たぶんジャーナリストならやってもOKなえぐい取材が学者倫理としてできないから記述がかなり薄くなっているのではないか、と思われるところが、かつてド田舎に住んでいた人間としては結構あった(ところどころ「これは書かれてはいないが、地元の人間関係やスキャンダルが関係あるだろうな」となんとなく思うところがあった)。

 あと、もうひとつ、かつてド田舎に住んでいた人間としてはちょっと前提が共有できないところがあった。それは全編のかなりの部分が「保守系のアンチフェミニストは性別役割分業を普段からやっている怖い人たちだと思っていた→会ってみたらけっこう感じのいい人でした」という構成になっているんだけれども、うち、そもそも「地方のアンチフェミニスト=怖い人」という前提がないのでこのへんに全然意外性を感じず、あまり驚きがなかった。私、田舎の怖いところというのは一見感じがよい人がふっとすげえ差別的な発言とか邪悪な行為とかをナチュラルにするところだと思うので(←これは実体験に基づくものであるのであくまで個人的なものだが)、なんというか「行ってみて驚きました」というこの本の調査前提がかつての田舎人としてはナイーヴに見えてしまうというところがある。そういう意味で331ページの「実際に長く付きあい、話を重ねれば、衝突する論点以外の生活には共通点も多く、会話も弾む」という書き方はすごくなんか納得できない。たぶん田舎でこういう人たちと町内会やらPTAやらで顔を合わせている人にとっては逆で、「普段は共通点も多い人が、大事なところでとんでもなく頑迷な意見を出して衝突してくる状況が半永久的に続く」というのが問題で、それから逃れられないのが田舎の息苦しさなんだと思うのである。

 …で、私がこの本を「村の緑を守る会訪問記」と題したのは、まさにここで著者たちが訪問したバックラッシュ系の運動に携わった保守の人たちというのがキンクスの'The Village Green Preservation Society'に出てくるような人々だと思ったからである。'The Village Green Preservation Society'は村の緑とかなんかよくわけのわからん伝統的なものを守る会の人たちを歌った歌で、一見よくいる感じのいい人たちであるようだがなんかたまに「ええ?」みたいなことを真顔で訴えたりする。『ホットファズ』にもこの歌が印象的に使われているんだけど、この映画はそういう田舎の実態をすごくデフォルメしてうまく描いたからあんなに(田舎の出身者とかに!)受けたんだ、と思ってる。

 あと、ちょっといくつか細かい感想を書き留めておこうと思う。

・既に『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』でも論じられていたし書評でも指摘されているので非常に皆興味あるところなんだろうと思うのだが、「ジェンダー・フリー」が「誤読」されて広まった、という点について、ヒューストンの概念を学者がきちんと読んでないというそれ自体は非常に問題だと思うが、言葉の歴史とかをつつくのが好きな英文学の研究者としては「ジェンダー・フリー」という言葉が提唱者の意図とは違う意味で人口に膾炙するようになった、というのは非常にありふれているしたいしておかしくもないことのように思える。あと、これに関して8ページ目にジェンダーフリー概念について書かれた論文の引用があるのだが、「論文の筆者は」のところ、これ主語がヒューストンかそれとも田中かわからなくて読む方が混乱するのでブラケットで補足入れるか引用をもっと長くしたほうがよかったのでは。
・14-15ページの上野千鶴子のデルフィ紹介について、「80年代のジェンダー論に決定的な転換を持ち込んだのがデルフィである上野の説」について解説があるのだが、私の記憶では上野自身が「私自身はデルフィに非常に多くを負っているが、日本でデルフィがここまで大物扱いになっているのには正直違和感を抱いてる」みたいなことを言った文章があったはずだとおもうんだけど書誌情報が思い出せない。誰か知ってます?
・42ページ、細谷の主張で「主婦をもつ男性」という表現があるのだが、これ本当に「主婦をもつ男性」っていったの?もしそうならこういう言い方は問題じゃない?
・既に指摘されていることでもあるのだが、83ページで山口編集長が「フェミニズムの関連文献についてよく読んで」いることは明らかだったと書かれているけど、この本の記述からするといったい山口編集長がフェミニズムについて何を読んでどう理解していたのか全然わからない。正直、たとえばこれがフェミニズムじゃなくニセ科学とか歴史修正主義なら「全く何も読んでないし何も理解してない」と叩かれるレベルの理解度であるように見える。
・290ページあたりを読んで思ったが、田嶋陽子はもっと評価されるべき。