ウディ・アレンの時系列バラバラ映画〜『ローマでアモーレ』

 ル・シネマでウディ・アレンの最新作『ローマでアモーレ』を見てきた。ローマを舞台にいろいろなカップルの恋愛模様を描くというオムニバスに近い形式のもの。

 これ、実は例の時系列バラバラ映画の一種である。アレンお得意のヨーロッパを舞台にした群像劇ふうな恋愛ものなのだが、最初と最後に一応俯瞰的なプロローグとエピローグがあるものの、その間に流れてる時間が各エピソードごとに違う。それぞれのエピソードはいかにもアレンふうなユダヤ系の青年の恋愛もの(留学中のジェシー・アイゼンバーグが恋人の親友である精神不安定な女優のエレン・ペイジに惚れてしまう)、イタリア艶笑喜劇(ローマに出てきた新婚夫婦の不倫劇)、ロベルト・ベニーニが出てくるファンタジー(一般市民の男性が突然スターになってしまう)、これまたアレン風芸道バカ話(アレン演じるオペラ演出家がイタリアで娘の婚約者の父親を無理矢理オペラデビューさせようとする)とジャンルが違って、さらにイタリア艶笑喜劇は途中で二枝に話が分岐する。このうち、アレンが出てくるエピソードがたぶん一番長いスパンで数ヶ月くらいを扱っているはずなのだが、イタリア艶笑喜劇は一日の朝から晩までの話で、これを映画の中では並行してだいたい同じ比重で描いているのでかなり時間の流れがバラバラに感じられる。さらに各エピソードは完全に独立で進行して全くクロスオーバーしないので、全体としては結構まとまりがない感じの話に見えるところも多い。一話ごとのそれぞれの話は悪くないんだけど、これは並行して描く意味があったのかな…?普通のオムニバスでよくないか…?

 それから時系列以外にもう三点触れておきたいところがあるのだが、まずひとつめとして『それでも恋するバルセロナ』でも思ったのだが、アレンの映画ではヨーロッパの古都にいるアメリカ人の惨めさをかなりあからさまに描いているところがそこらの観光映画と違っていて、それがいいところだと思う。『ローマでアモーレ』ではジェシー・アイゼンバーグが『ミッドナイト・イン・パリ』のオーウェン・ウィルソン的な役柄で「わりとヨーロッパになじんでるアメリカ人」だと思うのだが、エレン・ペイジとかウディ・アレン本人が演じる役どころは「いやぁヨーロッパに来てまでそれはちょっと…」みたいな感じがする、というかはっきり言って「ヨーロッパで見かける痛いアメリカ人観光客」だと思う。しかしながらこういう海外、とくに歴史ある古都によそ者がいることに起因する場違い感というか端から見ていて「えっ?」みたいな感じというのは、おそらく日本人がヨーロッパに行った時も若干はあるものだと思うので、そういうところを結構あからさまに描いているのはいいなぁと思う。

 ふたつめとして、ウディ・アレンの娼婦観ってなんか独特なところがあると思う。アレンの映画ってやたら娼婦が出てきて(『誘惑のアフロディーテ』、『地球は女で回ってる』、『セレブリティ』)、この映画でもペネロペ・クルスが娼婦の役どころで出てくるのだが、『誘惑のアフロディーテ』はともかく、アレンの映画に出てくる娼婦ってあまり自分の仕事に引け目を感じていないたくましいワーキングクラスの女で、かといって「黄金の心を持った娼婦」っていうわけでもなく、周りの人間が全部おかしいから比較的マトモに見える、みたいなレベルというか…まあでも『ローマでアモーレ』のペネロペ・クルスは相変わらずとんでもない莫大な色気を発散しているので、もっと出番が多くてもいいのではという気がした。

 最後に、アレンって舞台芸術の形式というものになんかこだわりがあるんだと思う。『誘惑のアフロディーテ』ではコロスが出てきたが、『ローマでアモーレ』ではアレック・ボールドウィンジェシー・アイゼンバーグの脳内コロス+中世劇のヴァイス的(主人公を誘惑したりする)な役柄で出てきていて、これとか『誘惑のアフロディーテ』の発展形だなと思った。それに本作ではアレンがオペラの演出家ということで、最後のとんでもないオペラ演出は最近の前衛的なオペラの演出をそれとなく皮肉ってるんだと思うんだけど、どうかな?まあアレンは『さよなら、さよならハリウッド』では自分のフィールドである映画とその評価基準すら皮肉って見せたので、オペラを皮肉るなんて朝飯前なのかもしれない。