たいへん日本ふうなSFとしての『図書館戦争』

 『図書館戦争』を見てきた。あまり期待していなかったのだが意外と面白かった。留学する前にわりと夢中になって原作を読んでいたのだが、映画で見て思ったのは、この作品は実に和製SFだということである。

 まず、基本設定として図書館関係法規とメディア良化法が相互に矛盾をきたしているのになぜか双方の馴れ合い?でその矛盾が解決されておらず、良化委員会と図書館が双方ミリシアというか法人の軍隊というかなんというかを持っているということになっているのだが、司法の権限が強い国でこの設定にリアリティを持たせるのは無理だろうと思う。英米なんかだと法と法が矛盾してるとなれば裁判が多発しまくって少なくとも法同士の整合性が保たれる形に修正されるだろうし、たぶんそのせいで英米ディストピアSFってかなり一貫性のある法体系が一般市民を抑圧している、という設定が普通だと思う。しかしながら日本だと司法の権限があまり強くないし、法のはざまで談合が行われていて…とかいうのもなんとなく「まああってもおかしくないか」という感じがあるので(日本に限らず東アジアだとこういう設定がわりと受け入れられるかもっていう気もするのだが)、かろうじてこの設定がリアリティを保っているんだろうと思う。

 あと、図書館が治外法権アジールとして機能するって、西洋式の図書館理念と駆け込み寺みたいな発想の混合だと思う。図書館がアジールだというのはまあ商業から守られている場所だという意味で現在でもそうなのだが、この話の場合、治外法権がある場所でしかも武装してるとなればまあ図書隊は僧兵である。小田原の図書館が襲撃される場面で丘の図書館を守るため図書隊が出動するのは、まさに世俗勢力が下界から攻めてくるのに僧兵が対抗するってことなんだろうと思う。ただちょっと古さを感じたのは、攻めてくる世俗勢力が世俗的な道徳を旗印にしている人々であって、商業を旗印にしている人々ではないっていうこと。もっとビジネス寄りの連中が攻めてくるようにしたほうが現代的になったんじゃないかな…

 そういうわけで、図書館の自由というヨーロッパ人にもわかりやすいテーマを完全に和風な感じで展開しているので、これ実はヨーロッパのSFファンとかにも受けるんではないかと思う。これは私のカンだが、ディストピアSFみたいに社会制度に関して思考実験するような要素の強いジャンルものだとちょっとはローカル色があったほうが他の文化の人の興味もそそれるのではないかと思うからである。たぶんこの映画を見たらUKや北米なんかのSF映画ファンは、「これ内戦なのにさすが日本人は冷静だな!」みたいなツッコミを入れて楽しむのではなかろうか。

 細かい内容について言うと、キャストはかなり原作のイメージに沿っていてよかったと思う。笠原はあまり美人でなくてとにかく頑丈そうで愛嬌がある感じだと思うのだが、榮倉奈々はキレイという感じではないがとても愛嬌があって非常にイメージにあっていると思った(ここで美人女優をキャスティングしたらダメだったろうと思う。ふつうの美人だと栗山千秋と並ぶと見劣りするだろうし)。岡田准一はアクションもきちんとこなしていて大変原作の堂上のイメージに近い。しかしアクション映画なのに栗山千秋にアクションシーンがないのは解せないな…原作から逸脱してもいいからちょっとくらい暴れてほしかったかもしれない。

 しかし決定的におかしいなと思ったのは、小田原から武蔵野まで資料を運ぶ時になんでデジタルバックアップをとらないんだっていうことである。最初は、検閲などのせいで技術革新が進まなかったのかな…と思っていたのだが、最後ソーシャルメディアでニュースが広がるっていう描写があって、あそこまで技術が発展してるのに重要資料をデジタルでバックアップして事前に送付しないとかありえないだろ。それも法で禁止されてんの?