世田谷パブリックシアター、白井晃『オセロ―』〜非政治的にリア充爆発しろ(ネタバレあり)

 世田谷パブリックシアター白井晃演出『オセロ―』を見てきた。なんかお手洗いみたいな簡素なセットに現代の衣類でやる上演。

 この演出のコンセプトはまあなんか所謂「リア充爆発しろ」みたいな感じのものである。オセロ―が仲村トオル、デズデモーナが山田優という美男美女のカップルで、とにかくオセロ―をイケメンに演出している一方、イアーゴー(赤堀雅秋)はとことんぱっとしない男に演出されており、なんでイアーゴーがこんなにオセロ―を嫌っているのかよくわかる。イアーゴーはあまりにもイケメンで完璧な男であるオセロ―に嫉妬しているからこそ、同じ嫉妬の悪徳にオセロ―を突き落そうとするのである。これはたぶん、日本の役者にブラックフェイスをさせることを避けながら(仲村トオルは浅黒くする化粧とか全然してないがこれは評価する)、原作でも男らしさというものにやたら固執するイアーゴーの動機をうまく表現しようとしたためにとった演出方針だと思うのだが、まあ人種問題を避けたのはどうなんだっていうところはあるけれども日本人が上演するということを考えたらかなりうまくやった演出なのではないかと思う。原作でもイアーゴーは「オセロ―は高潔な男だ」というようなことを独白場面で言っており、イアーゴーの悪巧みの動機は単なる人種偏見だけではなく、よそ者でしかも黒人の男が自分にはとうてい及びもつかないほど優秀な軍人で人柄が立派で美女にも好かれて男らしさの鑑で…というところに対する嫉妬であることがほのめかされているので、まあ単純化とはいえるかもしれんけど「ぱっとしないイアーゴーがイケメンオセロ―の男らしさに嫉妬」というふうにすっきりさせたのは効果的ではあると思う。しかしイケメンで立派なオセロ―を恨むイアーゴーの悪巧みは大変悲惨な結果になり、とくに最後のデズデモーナの死、エミリア殺し、オセロ―の自殺あたりはかなり緊張感のある演出になっていて悲劇的なので、ぱっとしないイアーゴーへの同情はあまり起こらない。ラストシーンでこれで全部終わった…はずがイアーゴーが再びオセロ―夫妻を殺すというところは、笑える一方で男らしさに憑りつかれた男のどうしようもない恐ろしさを示すような演出だったと思う。

 と、いうことで、全体的にはシンプルでわかりやすく面白かったのだが、モダナイズの方法とテキストの編集方針にはちょっと疑問もあった。まずモダナイズの方針として、なんかちょっと不条理劇みたいにいつ、どこ、と場所が特定できないようにしているのだが、それってどうなんだろう…ロンドンで政治的コンテクストをふまえたモダナイズばっかり見てきたのでちょっとUKかぶれになってしまったのかもしれないが、たぶんこれロンドンでやったらモダナイズのセッティングが曖昧で'relevant'じゃないって言われるんじゃないかと思う。人種問題を回避した、っていうところ自体、ある意味で『オセロ―』の非政治化だしな…あと客席と舞台の境界がなく、偉い登場人物が舞台に入場すると観客も起立させられるとかいう演出があるのだが、これもUKでは結構ふつうな気がするのでそれほど革新的ってわけでもないかも。

 あと原作テキストの編集方針についてなのだが、後半はかなりわかりやすくカット・編集していてよかったものの、話の筋を通すために説明的な台詞を入れていると思われるところがあり(イアーゴーがロドリーゴにキャシオー殺しを持ちかけるところとか)、そこはちょっとそんなに親切設計にすると想像する余地が失われてかえってよくないんじゃないかと思った。以前『ヘッダ・ガブラー』にブライアン・フリールが手を入れたのを見た時もそう思ったのだが、完成された古典と言われてるものをいじくるんならめちゃくちゃにいじって換骨奪胎すべきで、原作にある曖昧さとかとっちらかった筋をはっきりキレイにまとめる方向に手を入れようとするとたいていよろしくない結果になると思うから、最小限のカットにとどめてあとはやめたほうがいいと思う。それからたまに入る変なダンスもいらんと思うのだが…私、楽しいエンターテイメントな踊りじゃないまじめなダンスとかをストレートプレイに入れるにはかなり懐疑的である。