『華麗なるギャツビー』〜抽象化の達人としてのバズ・ラーマン

 バズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演『華麗なるギャツビー』を見てきた。私は舞台に住んでいる者としてバズ・ラーマンの絶大な支持者であるのだが、全体的には『オーストラリア』よりはいいけど『ロミオ&ジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』には負けるかなっていう感じ。

 しかしながら『ギャツビー』が『オーストラリア』(これも全然皆が言うよりマシな映画だったと思うのだが)より断然バズ・ラーマンらしいと思うのは、ラーマンらしい舞台芸術的なモダナイズがきちんとできていると思うからである。ラーマンのいいところは「この話がこの時代にやりたかったであろうことを今の文脈にすると何か?」ということを的確に拾い上げてきて自分のコンセプトとして打ち出してくることができることであって、これは舞台芸術では普通なのだが映画ではかなりやりにくいし受け入れられないところもあると思うんだけれども、'make it new'という標語があってシェイクスピアを現代の衣装でやるとかそういうことに慣れている舞台の観客にはかなり当たり前というか受け入れやすいものである。ラーマンはある時代が持っているグラマーとか輝きみたいなものを極端に抽象化してそれこそ一語で言えるくらいまでに切りつめた後、その一語で言えるイメージを現代の人に見せるには何を使ったらいいかということをいつも考えていると思う。『ムーラン・ルージュ』や『ロミオ&ジュリエット』で音楽が現代だったり、電気キラキラの装飾やプールが出てくるのは、「当時の客にとっての視覚的衝撃を今の客に体験させる」ということに主眼を置いているからで、今回の『ギャツビー』でもジェイZなんかの音楽を使ったり、あまり時代考証にこだわらずに華やかでどこか悲しいパーティを演出しているのも、「ジャズエイジの衝撃を現代人に視覚的にアピールするには」ということを考えているからだと思う。それでたぶんその'make it new'のコンセプトはかなりうまくいっていると思う。

 しかしながら『ギャツビー』がちょっといつものラーマン節じゃないように見えるのは、ギャツビーとデイジーがお客さんの全面的な支持を受けるようなカップルじゃないということである。ロミオとジュリエットや、サティーンとクリスチャンは、いろいろな欠点はあってもかわいいカップルで、うまくくっつけないのも外的な権力とか病気とか、あまり本人のせいじゃない要因が主である。ところがギャツビーとデイジーがくっつけないのはとことん自分たちのせいであって、もちろんギャツビーが金持ちになったのに出自で差別を受けるというところはアメリカの平等主義に隠れた偽善を暴くというところで外的権力に関わる要因ではあるのだが、デイジーとかまあ最後ほんとけっこうひでえ女であまり観客の同情はもらえないと思う(これは原作でもひでえ女なのでしょうがない)。で、そもそも私はなんでアメリカ人があんなに『ギャツビー』が好きなのかよく理解できないところがあるので(例えば『嵐が丘』って同系列のテーマの作品だと思うけどあっちのほうがずっとスケール感がない?)、見ていてそもそもギャツビーの話が自分は好きじゃないじゃないかっていう気がしてしまった。大人の汚い腐れ縁恋愛ものとしてはやはり優れたところはもちあると思うし、レオとキャリー・マリガンの演技は良かったと思うんだけど。

 ちなみに私はこの映画を3D字幕付きで見たのだが、最初と最後にきちんと舞台上演ぽい奥行きのある額縁(ちょっとバロックシアターっぽい)が出てくるのは、やはりラーマンの頭には「これは枠のある舞台のような物語だ」というコンセプトがあるからだろうと思う(『ムーラン・ルージュ』も『ロミオとジュリエット』もそういうところあったが)。あと、さんざん噂されていたギャツビーが花火と「ラプソディ・イン・ブルー」と一緒に満面の笑顔(レオ笑顔!)で登場するという狙った大げさ演出とかも実に舞台芸術っぽいし、パーティ場面とかギャツビーがプールの階段を出入りするあたりのとり方とか、ちょっと舞台のレビューっぽい(こういうのとか)。やはりバズ・ラーマンは映画的リアリティというものが好きではなくて、舞台的なリアリティを映画に持ち込もうとしてるんだと思う。