『風立ちぬ』〜『イングロリアス・バスターズ』の後にこんな第二次世界大戦映画を作っていいとでも思ってるの?(ネタバレあり)

 科学史鑑賞会『風立ちぬ』を見た。 id:nikubetaさん、id:kosuke64さん、 id:emeroseさんも参加。

 一言で言うと『イングロリアス・バスターズ』の後にこのような第二次世界大戦ものの歴史映画を作っていいとでも思ってるんだろうかと思った。これはもちろん褒めてない。私には日本のアニメーション周りのサブカルチャーとか全然わかんないし宮崎駿の作家性にもはっきり言って興味がないので、とにかくこの映画が歴史ものとしてひどいなと思ったのである。

 実は私は堀越二郎のことも堀辰雄のことも全く知らなくて、科学史関係者と見に行ってちょっとレクチャーしてもらって歴史的背景を知った感じなのだが、なんかまあ航空史とか全然知らなくてもこの完全に失敗したパラレル歴史叙述は何なんっていう感じだった。

 まず、ドリームヴィジョンの使い方があまりにも安易というか…一応、主人公の堀越が三菱に入って軍事用の飛行機を作るという「現実の」あらすじがあるのだが、一方で堀越はイタリアのカプローニという飛行機設計者に憧れていて、その人と軍事用航空機じゃなく旅客航空機を作るという夢をやたら見ている。それで、この堀越が見る夢を描いたドリームヴィジョンが全体に占める量がやたら多く、しかも編集がなんか変なので実にすっきりしない。『コクリコ坂』もドリームヴィジョンとフラッシュバックの使い方が相当おかしかったのだが、『風立ちぬ』は輪をかけて変なのである。まず、最初幼少時代のところでいきなりドリームヴィジョンになって、ここは結構はっきり始まりと終わりがあるしまあ子供だからいいと思うのだが、その後、夢か現実かわからない飛行機が空を飛ぶカットがあってその直後に堀越が大人になる…のだが、その後ドリームヴィジョンがあまり前触れとかきちんとした終わりなく唐突に堀越の主観映像に割り込んでくるようになる(しかもこれが習慣的に繰り返される)ので、もうちょっと凝った映像作りをする映画作家の作品なら「大人になった後の堀越のストーリーは全部堀越の妄想です」と言われても信じるレベルで現実と妄想の境界が曖昧になっている。
 さらに軽井沢に移動した後はフラッシュバックまで使用しているので映画のテンポがかえって削がれていると思う。話としては三菱で新作航空機のテスト→いきなり軽井沢に舞台が移動、なんか落ち込んでいる堀越→だいぶたってからフラッシュバックで壊れた飛行機が写る、という順番で堀越の作った飛行機がうまく飛ばずに落ちてそれで堀越が落ち込んでいるということがわかるようになっているのだが、フラッシュバックとドリームヴィジョンの区別が明確でないし、ここで唐突に使用されるフラッシュバックは映画のテンポや情感にあまり貢献しているとは思えないので、フラッシュバックをなくして順番に話を進めたほうがいいと思う。
 最後もまた堀越のドリームヴィジョンで終わるのだが、このドリームヴィジョンがまあまったくもうやめてくれとしか言えないようなもので、カプローニと堀越が戦争に負けてボロボロですね…的な話をしていると堀越のせいで結核で死んだ妻が楽しそうに出てくるという展開になるのだが、もうほんと妻にも冷たいし自分の技術がどういうふうに戦争で使われるのかにも自覚が全くなかった技術バカが夢で救済をしてもらうというオチになっていて、夢ばっかり見てんなもっと真面目にやれ、とはっきり言って私は激怒であった。現実と全く接点のない技術者の狂気を描くというならもっと他に手法があるはずだというのだが、なんなんだこのドリームヴィジョンでの救済という夢オチは。
 で、この異常にドリームヴィジョンを多様する構成は、技術者が戦争用飛行機を作ったけど日本は戦争にボロ負けした、という現実の歴史に対抗するための技術者の精神史というか、ある意味でパラレルな歴史を指向するものなんだと思うんだけど、夢に逃げるってそれ単なる自己の慰撫、自慰史観だろっていう…ジブリはかなり左派的なスタジオだと思うが、そんな左派スタジオがこんなことやってるからいまだに変な歴史修正主義者がのさばってるんだよ!!っていう(真面目に映画を作っているのであろうスタッフには誤爆としか言えないであろう)ツッコミが鼻の穴から飛び出しそうになってしまった。

 あと細かいところで何点か文句があるのだが、飛行機が好き、カプローニとかイタリアの航空デザインにかぶれている、機械の「美しさ」をやたら重視する、という点で堀越のメカ美学はイタリア未来派だと思うのだが、未来派が否応なく持っているファシズムとの結びつきは全部カットされていて、そういうところにも「美と政治の結びつき」に関する隠蔽を感じてしまった。なんというか堀越を見ていて一番私が思い出したのはレニ・リーフェンシュタールである。レニは美しいものが好きだからと言ってナチスプロパガンダ映画を作った。美しいものに仕えることは怪物に淵に落ちることになりうるのに、堀越にはそういう自覚が全くなくて、最後もきちんとそれを相対化するようなオチになっていない。

 それから脚本にもそもそもかなり問題があると思う。とにかくヒロインの扱いがひどいしはっきり言って恋愛はいらない。あの恋愛をなくして、最後に飛ばした飛行機を完成させるための苦労を乗り越える過程を書いたほうがよっぽどまともな映画になっただろうと思う。技術革新を扱った映画なら、恋愛で主人公が再生するとかいうどうしようもないプロットじゃなく、何かの困難にぶつかる→失敗する→努力で新しい工夫を生み出す、という過程に焦点をあてるべきでは?最後の飛行機作りのところはどう見てもすっ飛ばしすぎである。

 それで、私は宮崎駿の作家性とかにかこつけてこういうことを弁護する気が全くなく、どっちかというと歴史映画というジャンルムービーとしてこの映画を位置づけたいので、そう考えるとどうしてもパラレル第二次世界大戦史を描いた『イングロリアス・バスターズ 』と比較してしまう。『イングロリアス・バスターズ』みたいにパラレル歴史をきちんと消化し、かつ「戦争が好き、でも正しいことをしたいんならこの路線でいけ」というのを明確に提示した映画が出た後で、こんなどうしようもない歴史映画を作ってしまうというのには全くげんなりする。おそらく宮崎駿をはじめとするこの映画を作った人たちは全く「『イングロリアス・バスターズ』の後にこういう映画を作っていいのか?」という問いは持っていなかっただろう。しかしながら私が思うにそれはかなり問題がある。この映画では世界の技術を見てそれに追いつくこと、というのがモチーフとして語られていたが、自分だけ見て周りを見ないと、技術でも芸術でも何でも閉塞する。そして『風立ちぬ』はものすごく閉塞した、ワールドシネマの潮流とか歴史映画のナラティヴの革新とかそういうものから完全に切り離されたところで作られた歴史映画である。技術革新を描いた映画が映画技術の革新に全く追いついていないとは実に皮肉なことであるように私には見える。