検閲が逆説的に保障する自由〜『英国ルネサンス演劇統制史―検閲と庇護』

 太田一昭『英国ルネサンス演劇統制史―検閲と庇護』 (九州大学出版会、2012)を読んだ。


英国ルネサンス演劇統制史―検閲と庇護
太田 一昭
九州大学出版会
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 この本は、一見表現の自由を制限しているかのように見える検閲が実は英国ルネサンス演劇を庇護していた、という学説に基づいてシェイクスピアなどの芝居と社会のかかわりを読み解いていくという内容で、専門的だが非常に面白く読めた。

 検閲が表現の自由を守る、というのはおかしいようだが、ルネサンス期のイングランドでは演劇はロンドン市(とくにお堅い人々)から強い圧力を受けていたため、それほど芝居に対して道徳的しめつけを行わない祝典局長による取り締まりと認可はかえって演劇にお墨付きを与える結果になった、ということらしい。もちろん今に比べると厳しい検閲があったわけだが、当時の他のヨーロッパ諸国に比べると、祝典局長のみならず貴族による一見制限とも見えるような庇護がかなり自由な創作活動を担保していたという話で、このあたりは1642年の劇場閉鎖なんかのいきさつを考えるとかなり説得力がある(市民の意志が必ずしも自由の拡大を意味しない、という皮肉な状況は現代でもありそうなので考えさせられるところだ)。このような学説は既に英語圏でも唱えられているようなのだが、著者はこれをさらに推し進め、REED(『初期イングランド演劇記録』)のような一次史料集を駆使しつつ、実は祝典局長はそれほど政治的に厳しい検閲を行っていたわけではなく、これまで検閲による編集ではとされていたシェイクスピア劇のテキストの異同のかなりの部分が上演上の都合や芸術的意図に基づくものなのではないか、と提示している。これは当時の劇団が上演のためにどういう工夫をしてどういう効果を狙っていたのかという話ともつながるので、シェイクスピアを今どういうふうにカット・編集して上演したらいいのかという疑問を考えるにあたっても多いに貢献してくれると思う。

 ちなみにテキストの異同の話については去年ティファニー・スターンの発表を聞いてなかなか一筋縄ではいかないなと思ったところもあるので、この本の議論にはかなり納得したんだけれども全てがそうとは言い切れないのかも…とも思うんだけれども、とにかくこの本で行われている議論は非常に興味深いものなので、今後もこのへんについては定期的にチェックしないとなぁと思った。