池袋演劇祭、プルメリアカフェ『小さな家と五人の紳士』〜不条理劇にひそむミソジニー

 池袋演劇祭の審査員になったので、審査作品であるプルメリアカフェの『小さな家と五人の紳士』を見てきた。

 これは別役実の不条理劇で、登場人物は五人の男と二人の女。ひたすら日常会話…なのだがそれにしては変な会話をし、最後にちょっとひとり、人が死んで一時間足らずで終わりというもの。途中で二人の女が登場してくるあたりの展開は『ゴドーを待ちながら』の影響が濃厚である。

 戯曲自体はけっこう面白いところもある。まず、不条理劇というのは長くてはいかんと私は思うのだが、これは一時間以下ということで不条理劇にしてはすばらしい長さだと思う。あと会話も「自分の感じ方と人の感じ方がいかに異なっていて通じ合えないか」とかがテーマで、変な会話のようでははぁ…と日常生活に引き比べられるところがたくさんある。

 演出も悪くない。こういう背景のない不条理劇はけっこうキャラクターを描き分けるのが大変だと思うのだが、男性五人も女性二人も、衣装もしゃべり方も少しずつ違っていてよく描き分けられていたし、途中からは笑いもどんどん起こるようになって間のとり方とかもよかったと思う。舞台セットも面白く、ついたてに段ボール箱があっただけのがらんとしたセットが最後、ついたての隙間から差し込む照明の変化で小さな段ボールの家がきれいに浮かび上がるところとかは大変工夫していると思った。

 ただ、私がなんとなく話にのれなかったのは、もともとの戯曲の女性二人の描き方にかなりミソジニーがありそうな感じで演出もそういう感じだなと思ったからである。出てくる女二人が最後殺し合い状態になるというのがオチなのだが、そのあとで男達がこの女二人の諍いをネタに家庭から距離を置くような発言をして幕、ということになる。以前見た安部公房の『友達』(岡田利規演出、こちらに私の劇評あり)でもそう思ったのだが、この手の日本の不条理演劇に出てくる女ってなんか家庭への囲い込みを象徴する存在としてすごく否定的に描かれてない?不条理劇というのは現実を違う角度から見るものだと思うのだが、この手のミソジニー的な不条理劇って単に「男はつらいです」っていう話にすぎなくて、世の中が不条理な責任を女に押しつけてる気がするんだけど…